真冬の道東:網走・標津・根室 流氷に流されて・・・

真冬(3月初め)に道東に行きました。
スキーで足くじいてスキーを断念した奴と宮ヶ丘YHで知り合い、急遽一緒に流氷を見に行こう・・・と、言う事で

網走まわりで行く事にし、初日はYHの目の前に流氷が入っているオホーツク荘へ。(本当は流氷が接岸しているかは、行ってみなくてはわからないのですが。行ったときは厚い流氷群が入っていました)
この頃は温暖化の影響などまだ無く、毎年1月中旬から3月いっぱいまで厚い流氷群が知床からオホーツク沿岸いっぱいにやってきていました。
それでも流氷群は気ままで、風によって沿岸から離岸したり接岸したりするのです。
時によって昨夜まであった流氷が今朝になると無かったなど・・
1963年(昭和38年)1月開所
オホーツク荘の前の流氷はガチガチで何層にも重なった重量感のあるものでした。
もちろん流氷に乗って遊びました。(良い子はマネしてはいけません、特に近年のように流氷密度が薄くなっている場合は流氷が動きだしたり、乗ったはずみに流氷のバランスが崩れ回転して海中にドボンするかもしれません)
流氷から落ちるとそれが軽い流氷でも、海中に体があると流氷を移動できないし水面に顔を出すことも出来ないと言われています。(なったことが無いので良く分かりませんが・・・)
私たちの時はびっしりと厚い流氷が入りこんでいたことを確認しています。
それでも波のうねりに合わせるかのように流氷は動きます、ギュー・ギューと音を立てながら。(地元の人は流氷が「鳴く」と言ってます)
 危ないって言ってんのにぃ
オホーツク荘は旅館の海の見える和室を使わせてもらいました。
食事は厨房の片すみ、ステンレスの調理台の上で食べました。 食事の中身の記憶はありません。
晴れていればこんな景色が見れたかも・・ 

翌日は吹雪の中、釧網本線に乗って標茶へ。 標茶から標津線に乗って根室標津へ。 そして尾岱沼へ・行くつもり・・・
ところが標茶まで来たところで標津線で乗る予定の列車が、標茶に向かう途中で地吹雪の吹き溜まりに突っ込んで不通とのこと。
釧路行きの列車から降ろされたものの、すでに駅の待合室は大混雑。
お客も多いので玄関開けっ放しで風雪は入り放題。(その頃は列車を使って移動する人が多かったのですね)
私たちは駅前の喫茶店に行きましたが、そこも超満員。 4人掛けのボックス席に詰めてもらって6人座りましたが、まだ立っている方がいました。
連れが足の悪い事をいいことに(松葉杖をついていた・・持っていた?)私もちゃっかりお座りさせてもらいました。(悪りぃ奴だこと)
 かいもん4号のホームページさんからお借りしました
列車は午後に復旧したけど根室標津駅到着はすっかり遅くなり尾岱沼へのバスも無く急遽、標津町YHへ。
根室標津駅から標津町ユースホステルまで地吹雪の中20~30分くらい歩いたかも。

1968年(昭和43年)12月開所

翌日、お天気は少し回復し小高い丘の上のユースホステルからは目の前に国後島の大きな姿が見えます。(あまりに近い外国です:不当占拠されてます)
白鳥台行のバスに乗り尾岱沼はパスします。
白鳥台に流れ込む春別川は暖かいとかで(と言ってもメチャ冷たい)流れ込む野付湾とも砂洲で仕切られているので、砂洲の内側と河口付近は厳冬期でも
凍らないと言われます。 なので、ハクチョウなどがいっぱい集まってくるのです。
そこで見たのは、くちばしが凍り付いてつららの下がっている白鳥。 そりゃあ寒いからなぁ、と思いました・・・
水鳥たちも高齢になると油分が不足するのか?くちばしに油分を上手く塗れないのか?
でもくちばしが凍り付くと口が開かず餌が食べれなくなるそうです。
それから先の事は・・・  考えるだけでも・・かわいそう
と思っていましたが、くちばしを羽の中に入れてしばらくすると体温で溶けると聞きました。 なぁんだ、でも良かった。
白鳥台。磨呂の写真館 (辰野邦次)さんのHPからお借りしました。

白鳥と流氷を見たらバスで西別へ、標津線で厚床を経由して根室へ。

上の写真は厚床駅ですが左の写真に根室市開基100年と書いてあります。 1968年(昭和43年)頃の写真だったのですね。(絵葉書から)
厚床駅で売っていた駅弁  駅弁の小窓さんからお借りしました

根室駅 さすがにこの写真は古すぎるだろう。

根室では玉屋YHです(いろいろな意味で有名になった事を知ったのは、その後のことです)
1983年(昭和38年)12月開所
このハンドブックの地図、よく間違えるんですが下が北なんです。 線路は釧路から180度向きを変え東側から根室駅に到着します。

の北海道の都市部以外のYHでは厨房で食事をとらされるとか、一部屋を男女別に仕切っただけの部屋に泊められるのとかは良くあったので、
そんなものかと思ってました。
今のように暖房が十分ではなかった事もあるでしょうし、一人、二人のホステラーのために食事を作るのも大変だったでしょう。
(私たちの時も私たちだけでした。 それも前日に電話で予約)
たどり着いたホステラーのために、それなりに暖かい寝場所を用意してくれるだけでもありがたい話です。
逆に今時の宿では考えられないですよね。
「暖房が壊れているからダメ」と言って簡単にお断りも出来たでしょうに・・・
放浪する者にはありがたい「宿」でした。

思うに山小屋の様な存在。 山小屋は突然行っても必ず泊めてくれます。
泊めてやるけど、不自由は我慢するんだぜ・みたいな・・(一畳分に三人寝るとか・布団が無いとか)
スキー全盛期には、スキー宿で布団部屋に「ご案内」されたこともありましたっけ・・・

翌日もお天気は良くなく、納沙布岬へ向かいバスに乗っているのは地元の方ばっかりでした。
終点まで乗って行く方もいましたが展望台にまで行く人はおらず、何となく途中でいなくなっていました?いずこへ??
厳冬の納沙布岬から根室海峡(珸瑤瑁水道:ごようまいすいどう)を雄大に流れゆく流氷を吹雪の中から垣間見ただけ。
零下10度を下回る気温とお天気から、逃げるように帰ったのは言うまでもありません。


動画の中に少し顔を出している灯台は、旧日本の貝殻島灯台です。 納沙布岬からわずか3.7kmの外国です。(ここも不当占拠されている島です)

じゃあ古いついでに、鉄道好きな方に・・・根室駅から根室半島南岸に沿って歯舞駅までを結んでいた路線=根室拓殖鉄道


線路あるけど、バスの方が断然早かったらしい・・・

当時の歌の傑作?(あまり流行らなかったけど旅のお供に最高の歌だったの)南 高節(みなみこうせつ)第1期の作品「旅情」です

ちょっと息抜き。どうぞ・・・て言うか、山口百恵さん三浦友和さんと結婚前のいい感じ・・・


こちらはカメラリハーサルの気を抜いた楽な感じがいいですね

なんか私の好きなものが集まってしまいました。 独りよがりでごめんなさい。

コメント

  1. youthhostel より:

    コメントありがとうございます。
    厚岸ユースホステルはお邪魔したことありません。 でも
    >台所のおっきいストーブの前で食べました。
    >しかも、そこで調理してるにもかかわらず、吹雪でぬれた服や靴をストーブで乾かしてくれたり、
    >「あったまるまでここで休んでって」と開放してくれたり、夕食調理で出る賄にしていいものもらったり、
    >当たり前かもしれないですが、いいところにお世話になった…と感謝しました。
    と書かれた記述を見るだけで温かそうな感じを受けます。
    ペアレントさんやファミリーの皆さんから親身の言葉を貰えると本当にうれしかったですよね。
    だってユースホステルを使う旅人は、人とのつながりを探しながら旅してるんですから。

    今でもこうしてYHを愛した人たちとつながりが持てるのは、本当に嬉しいです。

  2. 2あほ より:

    おっしゃる通りで、厨房で二食ってのは当たり前で、
    橋のたもとにあった「YH厚岸」なんかは、台所のおっきいストーブの前で食べました。
    しかも、そこで調理してるにもかかわらず、吹雪でぬれた服や靴をストーブで乾かしてくれたり、
    「あったまるまでここで休んでって」と開放してくれたり、夕食調理で出る賄にしていいものもらったり、
    当たり前かもしれないですが、いいところにお世話になった…と感謝しました。
    低料金で「寝場所・食事を提供してくれる」ってことは、放浪(徘徊)するうちらにとっては、
    本当にありがたいでした。(「YH厚岸」は現在国泰寺の近くです)
    ・・・北海道じゃ老舗の部類…かと思いますはじめっち

    玉屋も「4悪ユース」とか言われてたらしいっすけど、「根場所は用意してくれる(当たり前か)」し、
    (出発前だったけど)半島の隠れた見所や、サカイツツジの見ごろや写真や説明丁寧だったし、
    どこが「悪」だかわかんなかったのっす。
    ・・・「大学ユース研究会」とかの評論じゃアレだけど信用に足るんかどうかわからないっすゆたか