塩狩温泉ユースホステル

旭川から汽車で小1時間ほど稚内方向に行くと「塩狩」駅があります。

駅からすぐ近くに「塩狩温泉ユースホステル」がありました。
当初は旅館兼業として開業していましたが(塩狩荘)、いつしか日本ユースホステル協会直営のYHになりました。
たぶん三角屋根のYHに増築された時なのでしょうが、詳細不明。 ごめんなさい。
でももう閉館され更地になっていると聞きます、悲しいですね。

支笏湖YHと同じく夕ご飯はジンギスカンを腹いっぱい食べれるとして有名でした。
塩狩駅は樹木希林さんのCMで有名になった「比布(ひっぷ)」【ピップではありません】駅の2駅隣にあり、天川水系と石川水系を分ける分水嶺の峠がすぐ近くにあった事からつけられたようです。

分水嶺と言えば峠のてっぺん。
明治42年2月、峠の手前で旭川に向かう列車の連結器が破損し客車が暴走を始めます。
この時自らの身を投げ出し、自身の体をブレーキ(障害物)として列車を止めた「長野政雄」さんの話があります。
多くの乗客を助けたこの話は実話だそうです。 駅横に「長野政雄 顕彰碑」が建っています。
当時の鉄道の安全性に関し大きな問題提起となったようで、車両が分離した時、強制的にブレーキを作動させる列車貫通ブレーキシステムが採用されたり、
簡単には分離しない連結器の採用など、一層の安全性の向上がなされたようです。

この話は、「氷点」と同じく三浦綾子さんが小説「塩狩峠」としてまとめられています。
ただ「氷点」は小説として、心の内面を記したものですが「塩狩峠」は事実を元に構成されています。
ノンフィクションベースの小説、というところにちょっと思いをしてお読みください。
まぁ、実話と小説との若干の乖離はあるとしても、どちらにしても人としての在り方を問うもので、心に沁みるものなんです。

三浦綾子さんと塩狩駅 

ジンギスカン食べ放題と聞きつけ塩狩YHに来るホステラーの何人が、この事をわかっているか?気にはなりますね。
私が偉そうなことをいう筋でもないのですが。

「塩狩温泉ユースホステル」はすでに建物すら残っていません。 当時を思い起こさせる池だけがひっそりと・・
旧・塩狩温泉YH  1959年(昭和34年)8月開所

新・塩狩温泉YH 

三浦綾子さんと同じ、敬虔なキリスト教徒である本田路津子さんの歌声でコロナ禍の中での癒しをどうぞ



「一人の手」元々は反体制の歌(One Man’s Hands)だったようですが、本田路津子さんの日本語の詩が、そして歌声が素晴らしい。

学生運動の頃「みんなの手と手を合わせれば何かできる」と言うフレーズに強く憧れました。
自分たちで何かしなくてはという気持ちが非常に強く沸き上がりました。

今は「少しやり遂げた・感は」あります。 でも「まだまだ感もいっぱい」・・・

コメント

  1. youthhostel より:

    コメントありがとうございます。
    皆さんの心に残るユースとして塩狩YHはいつまでも上位にありますね。
    ジンギスカンの思いと共に(笑)

    やはり最低限のマナーを守りながら、ミーティングでは旅の情報を仕入れたり経験を話したりしながら
    自分なりの旅の方向性を決めて行くのが良いのかな?と思っている一派です。

  2. 2あほ より:

    今、和寒町議をされている方(のちに福原小学校校舎で民宿をやってましたが…)が働いているときに、よく泊まりました。
    なんといっても「ジンギスカン」、野菜は食い放題じゃないので、和寒でピーマン・もやしなどを買って、これでもかっていうくらい喰いました。
    あと、ちょっとリッチに「タモギダケ鍋」(町議さん曰く通称:『毒キノコ鍋』)のときも、町で豚バラとタモギ・シメジ・アゲ・こんにゃくなんかを手に入れて、増量して酒のつまみにしました。
    ユースは規則が厳しいといわれますが、ある程度常識を守れば、全く気になりませんし、むしろ普通?の宿泊施設よかも自由だった気がしました。
    ・・・楽しさは宿で用意してもらうものでなく自分で探して用意するものだと思いますはじめっち

    「懐古趣味で何が悪い」というブログの中の「懐かしいユースホステル」という項目があって、そこに「塩狩温泉ユース」の記事があるっすが、
    だいぶ昔の記事であるにもかかわらず、思い入れやなつかしさがあるのか、現在でも、もんのすげぇ書き込みがあったりするのんす。
    ・・・それだけ人気のあったユースなのっすゆたか