積丹かもいユースホステル

なかなか行きにくい場所にあるため、行けないでいた積丹かもいユースホステルです。
72年ホスバスに乗る前に、どうせ札幌まで行くならちょっと寄り道して「行ってみるか」とその気になりまして・・・
その頃の西積丹の地図(国道299号線未完成の頃の地図! キャニオンゴールドさんのブログからお借りしました)

函館から列車に乗ってなんですが、東京⇒小沢間がどうやって来たのか記憶がないのです。
函館着から急行「ニセコ1号」だったと思うのです。
(話は違いますが、ニセコ1号はすでに無煙化されていました:無煙化って死語ですね)
【無煙化:蒸気機関車を使わない事。 ちなみに午後函館を出発する「ニセコ3号」は蒸気機関車けん引でした・有煙です。】
どんどん話がズレますが・・大きな駅にはホームに顔や手を洗うためだけの大型の手洗い(洗面所)が必ずありました。
蒸気機関車が出す煤煙によって汚れた顔や手を洗うためだったのです。
時刻表にも丸に洗の文字が入った記号で表示が付いていました。
写真は「応援します!北海道コンサドーレ札幌 その2」のHPからお借りしました。
大きい駅だけあるように書かれていますが、その頃は小さい駅にも小さいながらも洗面台は必ずありました。
さらに北海道時刻表には「そ」マークがあり、駅そばのある駅として記載されていました。
 1965年夏
また話はズレますが、その頃から、もちろん「音威子府」駅にも、”そ”の「ホームそば立喰駅」マークは付いていました。
2021年春惜しまれながら閉店しましたね。 残念です。
駅そば店は地元の製麺所から仕入れていただけに特色があって面白かったです。(音威子府駅は黒色のそばでしたね)
”百合ヶ丘駅の駅そば、箱そばに負けるな”

話がずいぶん脱線しました・・・
そんな中で、記憶が戻ってくる場所があります、 それは小沢駅です。(上の地図の右下)
函館本線で到着後、岩内線の列車待ちをしていると突然ラジオ体操が流れ国鉄職員さんたちがわらわらと出てきてラジオ体操してたこと・・
これはしっかり記憶にある、だって自分も一緒にしたから。 (時間は6時30分でなく9時だったと思います? 不確実です)

昼前に岩内駅に到着。
さて・さて、岩内から積丹半島の西海岸を行く船って当時は朝と夕方だけ。
岩内についたのは昼前でしたから船便は無く、バスで赤石(神恵内より少し先)へ向かいます。

赤石からの道はいきなり山中に入ります、バス停は海沿でしたからほぼ標高0mからですね。
ずーッと上がり続けます(後から調べたら150m上がる)。
【利尻山登山も、まず海水に足を付けてから1.721mを登りきらないと完登と言ってはいけないようです】 う~ん、そおなのかぁ・・・
【利尻山の事は別に書きますが、富士登山で五合目からの登山だと標高差は1.500mありません。利尻山はかなりきつい山なんですね】
【それよっか、山頂直下のザラザラ崩れる道がコワイ! だってすぐ横は一気に500m位落ち込む崖ですから】

赤石からの道は山を巻くように作られた道路で、開通して4年、開発した時に周辺の木も切り倒したのか見晴らしはとても良いです。 【1968年(昭和43年)に開通したとか(神恵内町史):でも海沿いの道道⇒国道はまだ先、30年後の開通です】
積丹ブルーに光る海が足元に広がり、素晴らしい眺望により、疲れを忘れさせて・・・は、くれません、まぁ美しかったですケド。
かなり高い所まで上がってきましたが、それでも全ての山を巻く事は出来ず、道は小さなトンネルがいくつか続く道になります。
手掘りのゴツゴツ感の残るトンネルもありましたが、おおむねトンネル内だけ路面は舗装されていて歩きやすいです。
歩きやすかったのは、あくまでトンネル部分だけね。 他は非舗装のガタガタ道でガードレールも無かったと思うのですが・・・
小さなトンネルが続くと書きましたが、トンネル自体も小さく中型トラックが1台通れるほどの大きさです。

最後のトンネルを通りすぎると、道路は一気にほぼ海岸線近くまで降りて来ますが、新道工事にともなうのか道には大量の土が盛られたり削られたりしていて、歩く人も車もは小さな段差を、上がったり下りたり、ひーひー・ブーブー言いながらの通行です。
山を下り切った道は、珊内入口でマッカ岬を巻くのですが、海岸ぎりぎりの道で、海の荒れた日には来たく無いなぁと思いながらユースに到着です。
【上に書いた神恵内(赤石)からの道、私が歩いた山道は新道が完成したため、廃道になっています。通れないと思って下さい】

珊内への主要な交通手段が海路であることが確認出来た一日でした。【神威航運:かむい丸】

下の写真はその頃の船便の船です。
 背景は連絡船です。( Kamoiの思い出アルバムより借用:画像修正しました、ごめんなさい)
連絡船横の表記ですが岩内-神恵内-珊内-川白と書かれていますが、夏の期間だけ積丹半島の先っちょの余別まで(1日一往復だけですが)行っていたのです。
余別には積丹YHがあり、10時頃の船に乗れば(反時計回り)積丹かもいYHには都合よく移動できます。 (積丹半島左回り)
私のように岩内周り(積丹半島を時計回り)だと朝早い便か夕方の便しかないのです。
翌日はこの船に乗って神威岬を海から回る予定なんですが、海が静かでも神威岬の先端を回る際には、時によってえらく揺れると噂を聞きました。
船に弱い私には滅入る気持ちになってしまいますが、かと言ってまた山道を歩いて岩内に行く気にはなりません。
海の神様「いい子でいます」と、いつもの神頼みの私でした・・・

積丹かもいYHはなんで?と思うような場所にあるのですが、いいユースです。
交通の便が極端に悪くそう簡単に来ることの出来ない場所にあっただけに、本当の旅好きなホステラーが集まる場所だったからでしょう。
海から少し離れた場所にありましたが、海沿いに出ると夕陽がとてもきれいでした。
TVドラマなら海に向かって「ばかやろ~」と叫ぶのかもしれませんが、私にはそんなことを叫ぶいわれもなく、静かに一人で夕陽を見ながら思索(ボーっと)していたものです。(今なら、チコちゃんに叱られる・かも)

自分好みで言えば、拓郎が歌う「歌ってよ夕日の歌を」が、かもいの夕陽にあっていて好きです。
最初に楽曲を提供した、あの女性歌手では弱いような気がするの。
声はきれいなんですが・・・拓郎のだみ声の方がここではいい
「ぽよよ~んと静か~に」沈む夕日でなく、「オラオラ今から沈むからナ・良く見ておけよ」的な強い夕日の感じだからね・・・
でも残念なことに、この頃、この歌はまだリリースされていなかったのです。 (1975年春リリース)

 【1968(S43)年7月開所】
えりも岬YHとともに仙庭さんの奥さまがやっておられました。
でも気安く来れない場所柄もあってか、えりも岬YHと違って落ち着いた雰囲気でした。
ただ仙波ファミリーのYHと言う事もあり、常連さんがのしていて一見の私にはちょっと居心地が悪かったかな。(本音)

翌日はYHで一緒になった二人組が車で積丹経由で小樽に行くというので同乗させてもらいました。 船に乗らなくなってラッキー、神様「ありがとう」!
神恵内までの山道は例のトンネルがあります、トンネル入り口で一旦停車し対向車の有無を確認し、プププーと警笛で合図してから通ったと思います。
この道路、車の通行はほとんどなく、珊内に向かうときは2時間以上歩いて工事用とおぼしきトラックが2台くらい通ったかな。
神恵内に戻る時は時間も短かったので1台も合わなかったように思います。
コースは神恵内から当丸峠を通り古平へ、そのまま「神威岬」へ そして美国へ戻って美国YH泊。
その当丸峠は、今ならバスでも30分かからず行けるのですが、その頃は舗装/非舗装の混じった道で「通りたい人だけ自己責任で通ってね」という道。
珊内から古平経由で余別まで2時間程度かかった気がします。 船だと余別までだと1時間くらい。
(余別から神威岬先端まで歩いて1時間程度、私たちは「うしお食堂前」に駐車したので40分位です)

このあと、この車に災いがあるのですが・・・それは「美国YH」の記事で

コメント

  1. 昔の旅人 より:

    この春にラジオ放送で「太陽の丘」の唄が放送されていたので調べているうちにここにたどり着きました。懐かしい積丹かもいYHの写真を見ました。1972年に北海道に渡り1973年11月3日に北海道を去りました。その間、アルバイトをしながらYHを利用しながら北海道を周りました。積丹かもいYHは1972年9月1日から一週間ほど連泊、自転車日本一周の仲間が6人ほど連泊していました。賽の河原に行ったことなどいろいろ思い出されます。

  2. 山びと源 より:

    >ちなみにこの道路は1976年(昭和51年)になって川白まで延長されていることになっていますが(国道として)

    国道だったかは、解りませんが、川白までは、ダートでしたね!

    >私は神恵内・赤石の方から徒歩で来ていますので、そちら側の道の情報はわかりません。

    私も、赤石から行きましたが、YHハンドブックだと、赤石バス停からYHまで、2時間かかると書いてあるのですが、そんなに歩いた記憶がないんですよね?

    >えっちら歩いた第1世代のキナウシを経由する道も1985年(昭和60年)11月15日ににウエンチクナイトンネルなど完成し
    山道でなく海沿いを走る道路に変身しました。

    YHからの西の河原ツアーは、川白から、山道に入り、シシャモナイの滝上部を渡渉する事なく通り、西の河原へ降りるコースでした。

    それから、2004年頃に、積丹かもいYHに、予約の電話を入れましたが、建設作業員の貸し切りとかで、泊まれませんでした。

    しかし、トンネルが出来て、トンネル出口から、西の河原へは、海岸線に歩いて行けました!

    >良かったですね、西の河原は今は通行止めになっていて良識ある?社会人としては行けません。(笑)

    今、西の河原への道は、通行止めですか!
    残念ですね!

    色々、教えて頂き、ありがとうございましたm(_ _)m

  3. 山びと源 より:

    私は、1980年夏に、積丹かもいユースホステルへ行ったと思います。
    岩内から赤岩まで、バスで行ったと思うのですが、赤岩で荷物を預けた記憶があります。
    YHハンドブックだと、赤岩からかもいまで徒歩2時間って書いてありますが、これ全員歩いたんでしょうか?
    確か、10連泊して、西の河原ツアーや神仙沼ジンギスカンツアーに、何回も行きましたけど、これは、80年でしょうか?
    ヘルパーに、よいこ?(あほのこ?)さんがいて、後に、上士幌のとほ宿を開設され、一度だけ泊まりに行ました!

    • youthhostel より:

      かの地で10連泊もしたとはすごいですね。 私は1泊だけです。(常連さんに大きな顔をするなと怒られそう)
      私は1973年(昭和48年)に就職し、三重県に行ってしまいましたのでその後の事は良く分からないのです。
      ただ手元の資料では、私が歩いたのは第1世代の道路で1968年(昭和43年)に珊内まで開通しています。
      ちなみにこの道路は1976年(昭和51年)になって川白まで延長されていることになっていますが(国道として)、
      ハンドブックには岩内から川白まで船に乗って、後は歩いてこいとなっていますので、開所した1968年から何らかの
      道があったと思われます。 町道とか道道とか・・
      私は神恵内・赤石の方から徒歩で来ていますので、そちら側の道の情報はわかりません。
      >岩内から赤岩まで、バスで行ったと思うのですが、赤岩で荷物を預けた記憶があります。
      赤石(赤岩?)ですが、本当に小さな集落で荷物を預かってくれるところはあったかなぁ? 私は使っていません。
      でも「山びと源」さんが赤石で降りた(終点)としたら山道を歩いたのでは? ほかの交通手段はありませんから。
      ちなみに私が泊まった時には赤石から歩いた方はいなかったようです。 皆さん船か車かチャリか、ですね。

      >10連泊して、西の河原ツアーや神仙沼ジンギスカンツアーに、何回も行きました
      良かったですね、西の河原は今は通行止めになっていて良識ある?社会人としては行けません。(笑)
      えっちら歩いた第1世代のキナウシを経由する道も1985年(昭和60年)11月15日ににウエンチクナイトンネルなど完成し
      山道でなく海沿いを走る道路に変身しました。 第2世代の道路の完成です。
      12月1日からは岩内⇔川白間にバスが運行されるようになり、とりあえず珊内も陸の孤島では無くなりました。
      でもバスの開通に合わせて離島命令航路だった「かむい丸」も閉航したのは残念です。
      それによって「積丹かもいYH」と余別にある「積丹YH」は再び近いのに遠い距離になってしまいました。
      時代は過ぎ、1996年(平成8年)11月1日にようやく積丹半島を1周する道路は完成しました。 第3世代道路ですね。
      しかし全通前の2月には東海岸を走る豊浜トンネルで崩落事故が発生しで20名もの方が亡くなり、非常に悲しい思いです。