私をスキーに連れてって・って・・

「私をスキーに連れてって」(1987年11月公開)は皆さんご存じですよね。

映画のさわりだけちょこっと

コミック誌に掲載されたホイチョイ・プロダクションの「見栄講座」から発展し、スキーブームの兆しを捉えて作られた作品です。
「私をスキーに連れてって」は漫画化はされていないようですが、派生した単行本(漫画ではありません)「極楽スキー」「極楽スキー89」は最高でした
なんか、ホイチョイの作品は若者心をくすぐるというか、読んでいて「そうそう」とか「なるほど」と頷く記述が多かったですね。

北海道生まれの私ですが、幼いころ関東に出てきたこともありウインタースポーツとは、とんと縁の無い人間でした。
でも、ご幼少のみぎり雪とは触れ合う機会は多かったので、雪には強いあこがれがありました。
本格的にスキーをやろうと思ったのは昭和45年のホスバス(私はホステラーでした)で訪ねたチセハウスの織笠巌ペアレントに強く影響されたからです。
60歳だけどスキーが面白くてしょうがない、チセ(ニセコの奥山)の山頂から腰まである新雪をはねのけながら滑る快感を教えてくれたのです。

春の試験が終わってからチセではなくオロフレスキー場へ飛んで行きました。
60の爺さんが出来るのだし(織笠ペアレントさんごめんなさい)、私もすぐに出来るのだろうと思っていたのですが、まるでうまく滑れない。
というより、雪の上で動けない。 前に進めない、向きを変えられない。
お得意の本(解説本)を見ながら【活字中毒者の悪い癖】やってみようとするのですが、全く自由にならない。
ちょっとした1m位の段差を苦労して上り、滑る、転ぶ・・・
数メートルの坂を滑り、止まるのにほぼ1日使ってしまいました。
少し滑れるようになりましたが、小さなオロフレスキー場の小さな(300m程度)リフトで上に上がると降りるのに1時間もかかる始末。
でも雪と戯れる感触に虜になりました。

少し上達すると、当然もっとうまくなりたいと思います。
のめりこんでいきます。

学生時代はそこそこでした。 そこそこと言っても初心者レベルから初級者レベルになれた程度でしょうね。

社会人になって赴任した営業所の所長がスキーが好きで、毎週のようにお誘いがかかります。
ところがレベルが違い過ぎる・・所長は八方尾根がホームグラウンドなんですが、私は下まで降りきれない。
下りのリフトに乗って、寂しく人目を気にしながら降りていた時は泣きたい気持ちでした。

よぉ~し!上手になってやると、こっそりとスキー教室に通うことにしました。
志賀高原一ノ瀬スキー場を中心に展開していた日本オーストリアスキー教室「NAISG」です。
ここのスキー教師は皆さん上手でした。 目を見張るほど。
当時の柳沢校長による、スキー教師に対する指導は非常に厳しく「柳沢道場」と呼ばれていました。
コブの急斜面を、今のモーグルのように小回りで滑るのでなく斜面を数ターンで降りてくる場面では感激するほどの気持ちで見ていました。
ものすごいスピードでコブの頭を飛ぶように滑る姿はかっこいい、そのものです。

この教室には本当に良く通いました。
基本4泊5日のコースですが、なんで社会人の私がそんなに通えたのか、それも不思議です?
自分でしたことなのによく覚えていない・・・

(久々にNAISGのHP見ましたが、蔵王教室にカミソリ柴﨑先生の顔を見てビックリ・懐かし)

おぼえているのは宿舎だった「シャレー志賀」がとても居心地の良い宿舎だったこと・・・
どんなに寒い日でも暖かな館内、大きなお風呂、十分な食事
奥志賀高原ホテルや焼額のプリンスよりずっといいです。
奥志賀高原ホテルでの冬の夜はとにかく寒かったです、温水プールよりも大浴場がほしかったです。 リゾートホテル感はピカ一でしたが。
プリンスはビジネスライク、リゾートホテルとは言えなかったです。
なにせメインダイニングでビール頼むと缶ビールをそのまま持ってくるようなところです。 <品川プリンスホテル・志賀高原別館>という感じ。
ただ夕食にすき焼きか鉄板焼きをチョイスすると、ホテルとは別の場所にレストランがありバスで送迎してくれます。
しんしんと降る雪の中をバスで移動して食べに行くのは、結構いい感じでした。
その時Tシャツ1枚にダウンコートだけ着て外に出る事を学んだんです。
それはともかく、シャレー志賀にはスキー教室だけでなくプライベートでもお世話になりました、感謝しています。

スキー教室「NAISG」は日本プロスキー教師協会(SIA)に所属していましたが、さすがに教えるプロ集団でした。
一時、自分が滑っているのは基礎スキーなんだからと全日本スキー連盟(SAJ)の浦佐スキー教室にも行きましたが、教え方が雑。
雑というより的確な指摘をしてもらえない。 いいんじゃないですか~と言われて、バッジテストでは合格できない。
浦佐のような小さなスキー場でちまちま滑るスキーはダメですね、形だけ教えて、それで良いのかと何回か通って止めました。

私にスキーを教えてくれたもう一人の師、オロフレユースホステルの前田光彦ペアレントの別の顔は、SIAのプロスキーヤーでした。
サブペアレントの安部和宏君も、朝日グラフのような一般向け雑誌の大見出しに写真が載る程のテクニシャンです。(オロフレYH恐るべし)

前田Pは、スキーの本質はどんな斜面でも、どんな雪でも、安全に早く降りて来る事、と教えてくれました。
ちまちました技術なんかじゃなく、大きく自然の中を自由に動けるようにするのだと学んだはずなのに、つい形から入ろうとしていました。
ある日、吹雪と極低温でYHから出るのを躊躇していると「地元の小学生はどんな吹雪でもスキー履いて学校へ行き来している、天候ぐらいでうだうだするな」と叱られました。
小学生だけでなくオロフレスキー場に練習に来る自衛隊員の訓練では、どんな天気でも山の中まで平気で滑り込んでいましたし・・
(彼らはそれが侵略者や自然から自身の命を守るための行動だったのでしょうが・・)
でも、彼らにはリフトの途中で飛び降りるのは止めてほしかった・・・激しく揺れるので。(3m程度の高さからなら平気で飛び降りていました)

チセのスキー場では雪が降りすぎて、リフト乗車中ほとんどスキーを雪面につけたまま上がる事がありました。
そんな時、ちょっとへまをするとスキーがあっちの方向へ行っておっとっとだったり、雪に刺さってどてっとリフトの搬器から落ちたりしましたっけ。
自衛隊員のように自ら飛び降りるのでなく、他力で勝手に落ちちゃうのです。(情けない限りです)
チセにも自衛隊の訓練場がありました。 完全武装の自衛隊員がコースを上り下りするのですが、必ず(ほとんど)転ぶ場所があって、そこに鬼教官がいる。
鬼は竹刀を持っていて転んだ隊員に、XXをするんですねぇ。 (XXは自己規制:あなたの思うようにお考え下さい)
なんてひでぇことをするんだ、やっぱり自衛隊はダメだとその時は思いました。
が! 今思うにやはり上に書いたように侵略者や自然から自分を守るためには自分を磨くしかないんですね。

閑話休題・(というか、そもそもこのブログ自体が「閑話」で出来上がっているのですが・・・)

そうそう、オーストリアスキーと言えば1973年(昭和48年)オーストリアのトップデモンストレーター「フランツ・ラウター」氏が来日しました。
いやまぁカッコ良かったですねぇ。 今風に言うなら、半端なく・・・
氏も上の【シャレー志賀】に泊まっていたので、ウエァーにサインもらったりして・・・ ミーハーな私でありました
ハンサムだしスキー技術もと・どれをとっても一流でした。
当時着ていた「リバティベル」(スキーウェアの会社名)の白いエナメルのダウンパーカーがまたかっこよくてね・・
さすがにちょっとアレなのでこのウェアは買いませんでしたが(高かったし)、緑色のセーターは買わずにはいれなかったです。 (ミーハーでした)
その後日本ではヤマハ専属になり(あのヤマハ楽器です)ヤマハのウェア、スキーなど、ヤマハ一色になっていました。
もちろん私も買いました。 セーターなど非常に品質が良く今でも着れます。
 F・ラウターの滑り
まだそんなにスキーも上手くなかった頃、ラウターやスキー教師の履いているブーツや板、はてまたウェアまで同じものを用意すれば同じ滑りができるのでは・・と思っちゃうのですね。
スキー板もスキーブーツもいいもの買えば上達できるのだ、と・妄想が先走っちゃうのです。
高機能かつ高性能な板やブーツは、技術が伴わないスキーヤーには、たいてい「百害あって一利なし」なのです。(言い切っていいかな?)
一般スキーヤーでそんなに飛ばしてコブの中を滑るのでないなら、そこそこの用具で全然OK
と、いうところまでたどり着いたのは、ある程度上達してからでした。(早く気が付けば散財しなかったのに・・・)
【こんなことを言うと偉そうに聞こえるかもしれません、お許しください・・】

そんな私に転機が・・・
1990年頃から私の勤めていた会社が(外資系でした)PCを販売するためにDOS/Vシステムを導入してOADGから参入する事になりました。
別項で書いていますが、コンピューター黎明期からのめり込んでいた私にとって「待っていた時期が来た・・」と思ったものです。
本来の仕事を「ほっぽり出して」DOS/V・PCの啓蒙・広報の業務にのめり込んだものです。(この時点でサラリーマン失格)
さらに・・スキー場の仕事を受注したらしいとの話を小耳にはさみ、いきなりそちらの業務に入り込みます。(全くダメダメサラリーマンです)
上に書いた「私をスキーに連れてって」の主人公「矢野文男」が軽金属部に所属しながらスポーツ部の業務を手伝うのと同じようなスタンスでした。(どちらもダメダメダメサラリーマンでしたね!)

スキー場の仕事とは、1992年のスキーシーズンから志賀高原の全域のスキー場(全リフト)と域内を走る長野電鉄のバスの全てでICチケット化するシステム「オートゲートシステム」のことです。
このシステムはリフトだけでなくバスにも搭載されたため、スキーシーズンはもちろんですがグリーンシーズンにも域内の停留所から停留所までの運賃を車内でサクサクッと計算という事まで実現していました。
実現していました・と書きましたが、今では当たり前の事ですね。
でも当時(30年ほど前)、RFIDと呼ばれるICチップを使った自動改札は各社で開発はしていたものの、なかなか実用化されてはいませんでした。
JR東日本から始まったsuicaシステムは2001年からですから、非接触ICカードを使ったスキー場の改札システムは、ほぼ10年も前から実用されていたわけです。
世界では1992年からフィンランドのバス路線、国内では1997年から静岡県磐田市のバス路線で使われ始めたと記録されています。
1992年の長野電鉄バスでのICカード利用はほぼ世界初に近いのですね。
当時のICチップでは記憶容量が小さく、あまり複雑な動作は難しかったこともあって今のような爆発的利用にはつながりませんでした。 残念。
 オートゲート:徒然スキーヤー日記さんのブログから借用しました
技術革新が激しい時代、1992年開発された「オートゲートシステム」とおおよそ10年後の「suica」システムでは洗練度が違っていました。
でも私は「オートゲートシステム」が「suica」の下敷きになっている思っています。
JR関係者は頑なにオリジナルと言ってますが、10年も前から交通系で実用化されていたシステムがあったのですから調査しないはずは無い・・。
当初非接触としてアンテナから40㎝程度離れていても(ウェアのポケットに入れておく)認識できるような形で設計されましたが、お客さんが複数のチケットをポケットに入れる事象が多く、認識エラーが多発しました。
このため最終的にはアンテナ出力を下げ、アンテナ部分にICカードを「近距離非接触」の「タッチアンドゴー」のオペレーションが固定しました。
「suica」も開発時に言われていた非接触(ICカードをポケットに入れておくだけで通過できるとうたわれていた)方式も実用化段階ではタッチアンドゴーになりましたし。

JR東日本で2001年4月から始まった埼京線でのモニター試験にも当初から参加しましたが洗練されたユーザーインターフェースと思ったものです。
ただ埼京線域外に行くと「これは何ですか?」という顔をされ、しばらくすると発駅から降車駅までの普通料金を徴収され、代わりにもらう証明書で埼京線駅で返金するという、とんでもないオペレーションが発生しました。
そういう駅に限って大型の普通改札機(カード式)が大量に並んでいたものです・・
そんな経験から、今でも田舎駅に行くと簡易Suica改札機を探してしまいます。

しかし相変わらずJR会社をまたいでの交通系ICカードが使えないのは不便ですね。
東京近郊で言うなら「熱海駅」からSUICAカードで乗車し隣の「函南駅」で下車すると、残高有ってもピンポン!ですから。

前に書いた「私をスキーにつれてって」は1987年11月公開でしたから、残念ながらスキーゲートシステムは映画の中には出て来ませんでした。

当時の経緯が書かれた第三者の目はこちらから

やっぱりここではこの歌か・・・ youtubeから削除されましたので別サイトから
松田聖子さんの「サーフ天国スキー天国」 こちらからどうぞ

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