北回り12回 第12日目 8月1日(火)


今日の行程は チセハウス→雷電海岸→岩内→ニッカ余市工場→小樽→札幌ハウスYH です。
みんなよく寝れましたか?
昨夜はこのホステリングの最後の夜でした。 キャンプファイヤーもやりました、さすがにフォークダンスはありませんでしたが・・・
寝れなかったから元気がないの? 最後の日だから元気がないの?
初日、札幌ハウスで出会ったときの疑心暗疑というか、おっかなびっくりの気持ちだったのにね~ この旅行を通して本当に良い友達を得てくれたみたいです。

初日から同じ釜の飯を食い、同じ道を歩いてきたのに、それなのに・・・夕方になると君と私は別の道を歩かなくてはならないのです。
悲しくなる気持ちはよくわかります。
朝の歌、最後だから元気に歌おうよね、と言ったのに何か沈んでしまっていました。

バスは日本海側へ進みます。 あまりホステラーも一般観光客も行かない方面です。
海沿いには寿都という町があり、昔は国鉄と鉄道でつながっていたのですがこのホスバスの少し前(1968年)に水害から営業休止になっています。今は完全廃止されています。

この寿都の町から少し離れた場所に島牧村があり島牧YHが1973年に開所しています。
ここで歌われていたのが「島牧の谷にカタクリの咲くころ」【カタクリの咲く頃】です。 優しい曲調の素敵な歌ですね。

道内のYHを旅していると、俺は一人で本当の旅をしている、旅というのはこういう風にするんだ、こうでなければいけなんだ、と声高に話す輩がいます。
どこに旅したのですかと聞くとえりも岬だとか、知床だとか、桃岩で10連泊しただの、ありふれた場所にしか行ってないんですね。
せめて塩狩、豊富、天売島、出来れば積丹かもい、幌加などに行ってもらえればお~すごいですね、と言えるのですが・・・
そして今なら島牧のような辺境の地。  島牧が寂れて悲しい街と言っているのではありません。
島牧はいわゆる観光ルートではありません、自分できちんと目的を持ち、何かを感じ取るような地として選択してほしい、そんな目的地としていいのではないかと思うからです。
島牧YH、かく言う私も行ったことがありませんが・・・えらそうなこと言っていてすみません。
1993年北海道南西沖地震の津波で建物全壊したそうです。 (あの奥尻島が壊滅的被害を受けた大地震です)
今は復活していますが、YHの皆さん大変な苦労をして運営されていると思います。 もっと旅人が増えると良いですね。
現在の島牧YH 被災前の島牧YH

 昭和48年10月開所

日本海側に出ると、寿都とは反対側の岩内方面に向かいます、走っている道は国道229号で今は積丹半島を一周します。
日本一トンネルの多い国道として知られ、その数は76本あります。
岩内町に入ると、すぐに武蔵坊弁慶が刀を掛けたと言われた伝説が残る雷電海岸の刀掛岩が見える場所でトイレ休憩。
 雷電海岸と刀掛岩

話は変わりまして、1954年9月26日台風15号襲来時の強風の中、岩内町市街のほとんどが焼失する大火がありました。

ただ同じ台風により函館港で洞爺丸をはじめとした大きな海難事故があったため、岩内大火は全国的にはあまり知られなかったようです。

その後台風15号は洞爺丸台風と呼ばれるようになり、ますます岩内大火は人々の記憶から薄れていきました。
そんな台風15号で起きた二つの災害を題材に水上勉の推理小説『飢餓海峡』(きがかいきょう)が作られ、私も鳥肌が立つ思いで読んだ記憶があります。
大きくなってから映画を見ましたが「恐ろしか~」と記憶されています・・

【ちょっと息抜き】
文学と言えば夏目漱石が岩内町に本籍を移し徴兵を逃れた逸話もあります。
当時北海道は屯田兵の制度があったため日本軍への徴兵制はなく、漱石は実際に徴兵されなかったそうです。 (実話だそうです)

岩内町を通り過ぎたところで国道229号から離れ稲穂峠を抜け、国道5号線に乗って余市に向かいます。
この頃まだ国道229号線は積丹半島の外周を繋げられず途中で切れていました。
積丹半島の西海岸側は断崖絶壁が多く工事が難しかったのでしょう。
全線開通は1986年(平成8年)11月1日です。 なんと平成に入ってからだったのですね。

なんか激しく脱線してしまいました、元に戻して、と 余市ではNHKの朝ドラで有名になった「まっさん」こと竹鶴政孝が作ったニッカウヰスキー余市蒸留所を見学します。
ここの事務所では札幌オリンピックの金メダリスト「笠谷幸生」さんが仕事されていたのですが、バスのみんなはお会いすることはできませんでした。
工場では蒸留窯とか貯蔵庫など人目を引くところがありますが、私のお勧めは樽工場でした。
今も樽は自社生産なのでしょうか?
何十年にもわたって液体を入れておいて漏れ出さない樽を作るのは大変高度な技術が必要と思います。
表に出ない作業ですが、職人の技を見ているだけで飽きないものでした。 国内での製造動画が無かったので外国物ですが

↓追記(20210503)
ウイスキー樽は今でも余市で作っているそうです(ニッカではあと、宮城峡と栃木で作っているとか)
私が良く行った1970年後半の余市蒸留所では受付を通れば後は自由に所内を歩き回れたので、製樽工場を見に行けたのかもしれません。
今の余市はしっかりコースが決められていて、コース外には入れませんものね、いろいろバカなことをする輩が増えたのも事実ですから。

上の左の写真はリサイクル樽の補修風景です(樽は何回もいろいろなお酒を入れながら使いまわしをします)
 この時古くなった樽にパッキンとなる「ガマの穂の軸」を入れ直す工程の写真
ちなみにニッカのいわれは、
【余市で採れるりんご等の果物を使い、ジュースやジャム等の加工食品を製造しておりましたので、社名を「大日本果汁株式会社」と申しておりました。
大日本の「日」と果汁の「果」取り、昭和27年に「ニッカウヰスキー」と社名変更いたしました。】ニッカウヰスキーHPより
余市付近は、仁木町などを含めて北海道のフルーツの大産地なのです。

お昼ご飯はニッカウヰスキーの食堂でとったのでしょうか? 全く記憶にありません。

あとは小樽の街を「バスの車窓から」見て全てのプログラムは終了です。
この頃の小樽運河は整備されていず、バスも運河沿いでなく小樽駅前を通るだけでした。
私の出生地ですが、この頃は一番煤けて汚れた街だったかもしてません。
まだ各家庭では石炭ストーブが使われていた時ですから煤煙がひどく、線路には蒸気機関車が頻繁に走っていた頃ですから。 でも好きな街です。
その頃は斜陽の町小樽をうたった歌も少なく11日目に書いたNHKドラマ「旅路」にひっかけたような「小樽のひとよ」がヒットしました。
この動画の中に私がご幼少のみぎり?いつも汽車を見に行った船見坂にかかる船見橋、小樽運河も埋め立て前の幅広かった姿を見ることが出来ます。


歌唱が三條正人さんでないのが残念! でも背景画がその当時を一番表しているので使わせてもらいました。
ちなみに三條正人さんは2017年秋にご逝去されています、ご冥福を祈ります。

今は観光地化され、地元資本以外が作る小綺麗なお店が増えました。 そして寿司屋と洋菓子店ばっかり。
「若鶏なると」さん頑張ってください、「ぱんじゅう」のお店も頑張ってください。

それよりか、あと数時間で別れなければならない。 この辛さをどうしよう。

最後にこう言ったのをおぼえていますか 「ホステリングバスの中で培われた友情と連帯の気持ちをいつまでも忘れず、やさしい心をもってこれからの日々を送って下さい」と。
あれから半世紀近い日が経ちました。 でも、あの過ぎた日は決して遠い世界ではありません。

私をはじめ、みんなおじいさんおばあさんになってしまいましたね。 でも出来る事はまだまだあるはず。
これからも思いやる心をもって、小さな一歩でもいいです、社会貢献に努力するみんなであってほしいと願ってやみません。



みんな、いつまでもいつまでも友達だよ、 本当にありがとう

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