安乗崎燈台と安乗文楽

私のブログは北海道のユースホステルを中心とした記述になっています。
その後、社会人になってから三重に赴任したため伊勢・志摩の話が増えて来ました。
今回は阿児町安乗です。

北海道の話の中で私が一番好きな燈台は能取岬燈台ですと書き、二番目に好きな燈台は志摩にある安乗埼燈台と書きました。
「安乗埼燈台」と言っても知らない人が多いですよね。
なのでまずドローンから見てみましょう。 現・伊勢志摩ユースホステルのHPからお借りしました。


燈台の中も見てみたい? このページに直接貼り付けられませんでしたのでこちらからどうぞ

地図上の場所は、下の地図で言えば右上にあります。

伊勢志摩YHから、遠くはありませんが近くもありません。
電車とバスなら1時間くらいかかります。 車だと15分くらいかな? 良く行きました。 だって好きなんだもの・・

燈台の謂れとしては「鳥羽海上保安部」のHPに
 安乗埼は、志摩半島の的矢湾入口にある岬で、周辺には暗礁が多く、古くから安乗崎、大王崎、鎧崎をもって志摩三崎と称し、海の難所
として知られていたところです。

 この灯台は、イギリス人R.H.ブラントンの指導により明治6年(1873年)4月1日、全国で20番目に設置された歴史ある洋式灯台です。
 建設当時の灯台は、八角形の木造で、明かりには石油ランプを使用し、職員3名により管理されていました。その後、海食により地盤が
崩れてきたため、岬の突端から後退させましたが、更に地盤が崩れだしたので、昭和23年(1948年)に現在の四角形型鉄筋コンクリート造に
建て替えられました。

 灯器は、大正12年(1923)に乙式石油白熱灯に変更、昭和7年(1932)に光源が電化、昭和25年(1950)レンズを四等フレネルレンズに
交換されるなどし、現在では水銀灯と反射鏡を組み合わせたLU-M型灯器が使われています。

 初代の灯台は、当時、木造で現存する最古の灯台であったので、現在は、東京都品川区の「船の博物館」の構内に移築されています。
 なお、安乗埼灯台が設置される以前は、延宝9年(1681年)幕士河村瑞軒がかがり火を設置(明治4年廃止)7尺四方、高さ9尺、塔上に
木製灯籠、油紙の障子囲いで火を点し、風雨のときは薪を焚き烽火をあげていました。(「阿児町史資料」より)

とあります。

燈台は現在でも海上の安全を守るため、不可欠のものです。
このため燈台が作られた明治2年の当初から、24時間365日間燈台を維持管理するため、燈台すぐ近くに官舎を構え、その任に当たっていました。
燈台のある場所ってたいてい、岬の先端であったり海岸丘の崖の上ですよね。 所によっては無人島にも置かれていましたし。
今のように単身赴任が当然でなかった時代です、家族で辺鄙を百回くらい言えば表現できるようなとんでもない地に赴任して行ったんですね。
北海道積丹・念仏トンネルの項でも書きましたが、燈台守の家族であってもその危険の中に身を置かざるを得ない環境だったとは。
その事故のあった積丹・神威岬燈台では海面からの高さ78mもある高さの海岸崖上の燈台横に官舎があって、一番最近の訪問は20年ほど前でしたが
その当時でも官舎床のコンクリートやタイル跡が残っていました・ 今も見ることが出来るのでしょうか?

そんな燈台守の姿が映画になりました。
1957年に松竹が制作・公開した、木下惠介監督の映画作品『喜びも悲しみも幾歳月』(よろこびもかなしみもいくとしつき)です。
さすがに私も当時に映画を見てはいませんが(後日TVで見てはいます)、若山彰さんの「お~いらみ~さきの、と~だいも~りぃは・・・」とガキんちょながら主題歌を歌っていました。

安乗崎燈台も舞台の一つになっていました。(四角形の燈台は珍しいそうです)
残念ながら神威岬燈台は舞台になりませんでした、撮影するにしてもあまりに危険だったからなのでしょうか。

現在の燈台では燈台守のような有人での維持管理は行われていません。(人がいた燈台は「有人燈台」と呼ばれていましたが2006年12月に全て無くなりました)
電話線や電波を使ってのリモート保守が可能になり、さらにGPSなどの新しい航海計器の普及もあり航路標識としての必要性の低下により、その存在意義が薄れつつあるのです。
現在、日本には約3000基の灯台があると言われますが、2024年までに沿岸灯台、防波堤灯台など、約300基の灯台が廃止されることも決定しているのです。
私たちの知っている燈台はそのうち無くなるかもしれません。  早いうちに記憶に残しておかなくては・・

ちなみに、動画などでも見えますが燈台の後ろ側?に今は「安乗園地」と呼ばれる広い空地があります。
私が初めて安乗埼燈台に行った時、ここには細長い校舎とグランドがあったと思うのですが???
校舎は中学校だったような??
この場所には燈台守の方々の官舎もあったとか? 今は安乗埼灯台記念館になっています。 記念館の内部はこちらから見れます。

安乗崎燈台のこと少しわかっていただけましたか?
安乗崎燈台のすぐ近くに大王崎燈台(波切町)があります。
太平洋を航海する船舶に対する案内や、太平洋から伊勢湾に入る目印になる非常に重要な燈台です。
大王崎燈台の上からの展望は非常に素晴らしいものです。
でも私の琴線にはちょっと届かないのです・・あくまで私の個人的見解ですが

やっぱり安乗埼燈台が好き!

ところで・この安乗崎燈台のある安乗町は昔からの歴史を持つ有名な町でもあります。
400年以上にわたり伝承されている伝統芸能の人形芝居「安乗の人形芝居」(人形浄瑠璃)があるのです。
文化庁より国指定の重要無形民俗文化財にもなっています。
 安乗神社の祭礼の際に境内の広場に建てられた専用の舞台において、安乗の有志により演じられる三人遣いの人形芝居である。
 演目としては「阿波の鳴門」「御所桜堀川夜討」「太功記」「菅原伝授手習鑑」等がある。
 また毎年大晦日に、神社境内の人形庫の神座に、御簾を垂らし、注連【しめ】を張って祭られている式三番叟人形(翁、千歳、三番叟)を本殿へ移し、
 一月二日の日の出を浴びて式三番を舞い納める行事がある。千歳を一番叟、翁を二番叟、三番叟をサンバッサンとも呼んでいる。
 安乗の人形芝居は地方に伝承されている代表的な三人遣いの人形芝居であるとともに、特に新年の大漁祈願を目的として式三番を舞わすという民俗と
 深く結びついたもので、地方的特色を示す民俗芸能として重要なものである。

安乗の人形芝居の背景
1592年(文禄元年)、豊臣秀吉の朝鮮出兵に鳥羽城主であった九鬼嘉隆(くきよしたか)が水軍を率いて加勢するために船を出したところ、安乗沖にさしかかったところで逆風となり船が進めなくなってしまった。
九鬼嘉隆はのちに「海賊大名」という異名を持つほど海戦に優れた武将であったが、さすがになす術がなくなった九鬼嘉隆は一旦船を下り、安乗神社に参拝し戦勝を祈願したところ風向きが急に変わり船は追風に乗って無事船を進めることができたと言われている。
九鬼嘉隆が戦功を得て安乗神社に参拝した際に自ら祭典を執行し、例祭日も定めたと言われており、村人が種々の芸能で大歓迎をしたものが、幾多の変遷を経て現在の安乗人形芝居として伝承されています。
安乗神社の人形芝居は、境内に作られた舞台で上演され、喜怒哀楽の表現が素朴な上、大胆かつ野趣に富むという特徴があり、400年以上にわたって住民に伝承され、今では国の重要無形民俗文化財として保護されているのです。

毎年9月15,16日の秋期例祭の日に執り行われています。
田舎芝居というと素人が台本棒読みのような下手くそな感じを想像しますが、ここの安乗文楽は全く違います。
観客の町民がただの観客でなく舞台の参加者になるのです。
見得が切られるともう大変、大きな歓声とともに”おひねり”の雨あられ。 めちゃめちゃ盛り上がります。
特に地元「安乗小学校・中学校」の演じる舞台は・・・ご覧ください。


動画の最後に大量の”おひねり”をグランド整備用の”とんぼ”で集めているのが笑いつつ和みますでしょ。

秋の一日、のんびり安乗岬燈台と安乗文楽を楽しみに訪問されてはいかがでしょう。

コメント