音威子府・砂澤ビッキ

中川郡音威子府村

他のページに中川郡中川町を書きましたが、ここ音威子府村は道内でもっと小さい、人口も千人に満たない村です。
でも意外と音威子府駅は良く知られていて、聞いたことのある方は多いのではないでしょうか。
北へ向かう鉄道路線はこの駅から二つに分かれ、日本海周りの宗谷本線とオホーツク海周りの天北線の2ルートがありました。
 急行「天北」(天北線:浜頓別回り)

観光的にはどちらのルートも得難いものがありましたね。
日本海回りでは、臭い温泉と呼ばれた豊富温泉YHとかサロベツ原野、そして原野の奥に見える利尻富士の秀麗な姿など。
 豊富温泉YH(入船旅館)1964年(昭和39年)2月開所
石油を掘っていたら温泉が出たらしいです。 温泉を掘ったら石油も出た・というのでないだけに本格的に油の浮いた臭い温泉でした。

オホーツク回りだと、オホーツクを縦断する興浜北・南線や浜頓別YHなどありました。
 浜頓別YH 1974年(昭和49年)5月開所
私が三重に行った後の開所です。 伊勢志摩YHや尾鷲YHをお手伝いしているとき、いいところですよ~なんて聞いていたものですから
ぜひ行きたいと思っていたYHでした。 残念!

2路線のうちオホーツク周りの「天北線」は、1989年にJR北海道へ移管されてすぐ廃止されてしまいました。
その前には興浜北線がすでに廃止されていて、オホーツク沿いに南下する鉄道は無くなっていました。
浜頓別YHも2004年に廃止されたのですが、天北線廃止が大きな引き金であったのではないでしょうか。

良くTVの紀行番組で音威子府駅の「駅そば」が紹介されますが、そんなにみんな食べていたのかなぁ?と思います
音威子府駅は2路線の接続駅でもあり、各駅停車・急行・特急の全ての列車が停車していました。(今でもそうなんですが、急行は走っていません)
1972年当時にはほとんどの列車が無煙化され、客車列車であってもディーゼル機関車牽引の為に停車時間は短かったです。(2~3分程度)
多くの列車はスッと来てスッと発車していくので、駅そばを食べれるのは鉄道関係者か町で仕事をする人たちだったのではないでしょうか。
(駅そばが食べたいと言うと改札を通してくれた、との話を聞きました)
その頃、唯一蒸気機関車牽引の夜行上り急行「利尻」では20分程度停車しましたが深夜帯の為、駅そばは食べれなかったですね。
昼行急行の「天北」も「音威子府」駅にスッと停車し数分ほどでスッと発車しました。
蒸気機関車牽引の普通列車でも停車時間は短かったです。
下の時刻表で言うなら、朝9時半過ぎに到着する各駅停車か15時過ぎに到着する汽車列車なら食べれるけど、そもそもこの列車を利用する旅人は何人いたんでしょうか。
音威子府駅で降りる特別な理由がない限り、食べれなかったはずなのですが・・・何で人気なのでしょうか?

さてさて、駅そばの話をするために音威子府に来たわけではありません。 (まぁそれも一部ではありますが)

1972年にホスバスに乗って阿寒湖畔のアイヌコタンに向かう時、ある人から「ビッキ」のアクセサリーを置いてある所はありませんかと質問されました。
「ビッキ」? アイヌコタンの土産物店に置いてある木彫りアクセサリーの事だと思っていました。
こんなのとか こんなのとか 

バスに戻りガイドさんに話をしたら叱られてしまいました。
「ビッキ」とはアイヌの方で「砂澤ビッキ」さんの事だと言われ、すでに木彫り芸術の世界では第一人者であるとも・・
有名な陶芸家「河井寛次郎」氏との交流もあったようです。 (「河井寛次郎」氏は人間国宝と呼ばれる事を自ら辞退したとか・・)
 故:砂澤ビッキ氏
あとから、少々ばつの悪い思いを隠しながら、聞いた方に「いいものありましたか?」と聞くと「全然」と答えられました。

バスを降りて(リーダーを終了して)から、いろいろと調べましたが今のようにインターネットなど無い時代、ちっとも「ビッキ」の輪郭がわかりません。
いやいや困ったなぁ・・・
どうやら「ビッキ」を表舞台に引きずり出してきたのは、大宅壮一氏が取材旅行で阿寒を訪れた時の事を書いたらしいこと。
そして例の「アンアン」「ノンノ」誌が、アイヌコタンの土産物として取り上げた事だったらしいところまでは追えたのですが、そのへんでおしまい。

その後に知った事
砂澤ビッキ氏は両親がアイヌ人でしたから大変苦労して育ったんだと思います。
今のように多様性といって、表面では受け入れる姿勢を取りますが、その頃は表も裏も否定的だったでしょうから。
アイヌの人たちとともに、先住民族としてのルーツを正しく認識する事は、私たちの責務であります。

今年(2021年)「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産として登録されました。
北海道における縄文文化とアイヌ文化の関連が、比較人類学的により深く知られるようになれば、また新たな発見があるかもしれません。
しかし縄文文化は1万年(100世紀)以上に及ぶと言われる中で、何がどうだったのか私の硬い頭ではよくわかりません。

(一つだけ)寒い北海道になぜ縄文人がいたのか、どうやら当時の平均気温は今より4~5度位高かったらしい・・・

話が脱線しました
辛い思いをしている中、阿寒湖周辺の広大な土地を所有する、前田一歩園が湖畔の土地を昭和34年アイヌコタンとして提供。
現在のアイヌコタンの原型が生まれたのです。
「砂澤ビッキ」は父・母とともに、観光客相手の土産物店を経営し、木彫り彫刻の腕を磨いていったものと思われます。
 ビッキの刻印
 
木と対話し、木に化粧をし(色付け)、と・芸術性の高まりは国際的にも評価され、世界の「砂澤ビッキ」になっていきました。
そんな方の一部すら知らなかった、私が恥ずかしいです。

「砂澤ビッキ」氏はその後1978年(ホスバスの終わった後ですが)、音威子府村に移住し、この地を創作拠点としたのです。
正しくは音威子府駅の一つ稚内寄りの「筬島(おさしま)」駅近くにある、廃校になった「筬島小学校」が拠点地です。
氏の亡き後、この旧筬島小学校駅の建物を「エコミュージアムおさしまセンター」にリニューアル。
「アトリエ3モア(通称:砂澤ビッキ記念館)」として生まれ変わり、彫刻作品をはじめ大小数百点の作品を展示しています。

芸術家でも何でもない私が評価するのは的外れかもしれませんが、初期の小物からして繊細で緻密な文様がちりばめられています。
ただ氏の方向性として阿寒の頃の手工芸的繊細さから、どんどん大きな美術工芸品に変わって行きました。

酒のせいで変わっていった??
記念館の中には「INAI INAI BAR」という、氏が好きだった札幌のバーが再現されています。
呑み代のカタを取られると言うか、いろいろな作品をお店に残していたようです。(それらはバーの火災で焼失したそうです)
他にも酒が大好きという記述もありました。「砂澤ビッキが通った店」 (リンクのリンクらしいです)

作品には遊び心があり、いわゆるからくり細工的要素がふんだんに盛り込まれていました。
一つ欲しいなぁ~、とは思いますが、小物で ”ん十万” ですから、ちと・買えねぇなぁ・・・

さも自分の持ち物のように写真を載せていますが、私はビッキ氏の作品は持っていません。 写真はみんな借りものです。
ばらばらに集めていたので、どなたからお借りしたかわかりません。 版権お持ちの方、申し訳ありません。 お許しください。

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