清水町(十勝と駿河)

1979年(昭和54年)10月 – 全国4つの清水町が姉妹縁組締結しました。 「4清水町姉妹縁組締結」です。
4つの清水町は、北から北海道・福井県・静岡県・和歌山県にあります(した)。
いわゆる一つの行政区の中にある街「神奈川県横浜市青葉区清水町(架空の町名)」の様なものでなく「静岡県駿東郡清水町」のように
単独の行政区になっている市町村です。
上に4つありました、と書きましたが「平成の大合併」により、「福井県清水市」「和歌山県清水市」は無くなってしまいました。
今は「静岡県駿東郡清水町」と「北海道上川郡清水町(通称:十勝清水町)」だけですかね・・・
そんなこともあり、「4清水町姉妹縁組締結」は2005年12月に自然解消となったとか、残念です。

先日、静岡県の清水町に仕事で出向きましたので、折角です、町内にある「柿田川公園」に行ってみました。
Wikiによると
 柿田川は清水町伏見にある柿田川公園の「わき間」からの湧水に源を発し南へ流下、
清水町役場付近で狩野川に合流する。
長さは約1200m、川幅は30~50m。流水はほぼ全量が湧水から成り、これは雨水や雪解け水が、約8500年前の富士山噴火による
三島溶岩流に浸透し、その先端部から湧き出でたものである。
清流で知られ、水温は季節を問わず15℃前後。 流量も年間を通してほぼ一定を保っている。
当河川特有の水中植物としてミシマバイカモが自生している。
柿田川の湧水量は1日約100万立方m(100万トン)。「東洋一の湧水(量)」と言われてきた。

となっています。
実は私も、実際に行くまで日本三大清流として呼ばれている事は知っていましたが、良くは知りませんでした。
見てびっくり、清水町にある「柿田川公園」が湧水場所なのですが、「ザー」とか「ドバー」という言葉では表せません。
なにせ、いきなり50m近い川が滔滔と流れ出ているのですから。(たぶん自分の目で見ないと信じられない光景と思います)

上の写真は”映える”場所から写していますが、それほどの誇張も無くいきなりこんな川が流れ出しています。
ついでに動画も・・・

北海道で言うなら「羊蹄のふきだし湧水」が有名です。
私もこの湧水を初めて見た時は、すごい湧水量に驚いたものです。 日に8万トンも出ているのですから。
え~っと、2ℓ入りのペットボトル1ケースで12ℓ。1日でざっと6700ケース、1ケース30cmとして上に積み上げると2000m以上です。

ところが柿田川公園の湧水量は桁違い、それも2桁も。
日に100万トンの湧出量ですから。
え~っと、2ℓ入りのペットボトル1ケースで12ℓ。1日でざっと83000ケース、1ケース30cmとして上に積み上げると25000m以上です。

ただ水温はだいぶ違います。「羊蹄のふきだし湧水」は年間ほぼ6.5℃、「柿田川湧水」は年間ほぼ15℃だそうです。

本来のお話は”湧水”の話ではありません。
柿田川公園内に「4清水町姉妹縁組締結」記念植樹があったのです。
「十勝清水町」からの樹木もありました。
びっくりしましたし嬉しかったです。 いろいろと・・・
植樹の写真撮ってきたはずなのですが、どこかに紛れ込んでしまったようで見当たりません。 十勝清水の皆さんごめんなさい。
元気に育っていましたよ。  写真は見つかったらUPします。
清水町の記念植樹、改めて撮ってきました。(2022年4月)

右が十勝清水町の木、左は静岡県清水町の木。 同じ日に植えたのでしょうが生育状況が違うなぁ・・・

今回の本題は以上の桜の話だけです。 短くてごめんなさい。

短いのでお詫びを兼ねて、清水町の工場のお話。
駿河の清水町では富士山伏流水である柿田川の清流を求め、いろいろな会社が工場を置いたようです。
ところが排水のたれ流しにより水質が悪化し、魚も住めない状況にまでなったとか。
その後、地元有志によるナショナルトラスト運動(柿田川みどりのトラスト)へと発展して自然環境を保全するための土地の買い上げや
工場の移転運動、清掃活動が行われ、カワセミ等も生息する環境にまで戻ったそうです。(上3行Wiki)
水は工場の命でありながら、工場は水はただの道具でしか無いのでしょうか。
今は上に書いたように日本三大清流と呼ばれる清流が戻っています。

清水町の話から外れて・・以前、私の家の近くには、サクラフイルムの工場がありました。
非常に大量の水を垂れ流すように使う工場でしたが、子供心にもこんなに大量の水はどこから出ているのだろうと疑問に思ったものです。
工場の隣にある淀橋浄水場の水は有料だから、こんなに、それこそ湯水のように使う事は無い事んだろうなぁと思っていました。
ではもう一つ隣にある「十二荘(じゅうにそう)」の池の水かとも思いましたが、その池の水はその頃から汚れた水でした。
工場で使われていた水は排水部分でも、とてもきれいな水に見えていましたから・・・(生化学的にきれいだったかは解かりません)
その後、調べたところ・・・江戸時代「玉川上水」が作られたことは周知ですよね。
その玉川上水は”多摩川”から引かれた水ですから水量は豊富でした。
江戸の町の上水のもう一つに神田上水がありましたが、こちらは井の頭池を水源とする湧き水で、日照りだと渇水になっていたそうです。
そのため玉川上水から神田上水に向けて神田上水助水堀なる水路が開削されたのです。
新宿中央公園の横にある「熊野神社」には、この水路を流れる水を使って大きな滝まであったそうです。 (記憶にありません)
サクラフィルムの工場は熊野神社の隣、位置的には熊野神社より高い位置です。(南側です)
1902年(明治35年)からこの水を使っていたサクラフイルムは水利権があったのでしょう。
淀橋浄水場が1965年(昭和40年)閉鎖される直前1963年(昭和38年)まで、この工場は操業していたそうです。 
跡地は新宿中央公園となり面影を知る由もありません。

話が外れましたが、十勝清水町の工場「日甜・清水工場」も水を求めてこの地に決まった話もあるようです。

昔の清水工場の写真。 煙突には「日本甜菜製糖株式会社製糖所」と書かれています。
ここに写る線路はほとんど河西鉄道(十勝鉄道・清水部線:762mmゲージ)のように見えます。 線路自体もヘロヘロですし。
河西鉄道は「日甜・清水工場」へ近隣地区で栽培されたビートを輸送する事を目的として作られた軽便鉄道です。

ビート(甜菜)は別名を「砂糖大根」とも呼び、サトウキビと共に、今も昔も砂糖の2大原材料であります。

写真からは良く分かりませんが、ほうれん草と同じ科ではありますが根が大きく膨らみどちらかといえばカブの外見です。
冷涼な地域を好むため、北海道農業の救世主として明治からたくさん作られていました。
ついつい砂糖はサトウキビからという思いがありますが、国内で作られる砂糖の約8割はビートから作られているのですって。
ビートからどうやって砂糖を作るのか? 下の動画でお勉強しましょう。

さて、河西鉄道に戻ります。
 どなたのブログから借用したか不明になっています、所有者の方スミマセン。
上の写真は「十勝清水」駅貨物ヤードから、日甜清水工場への引き込み線上の機関車です。
左に写る、いかにも本線と思える線路と比べ軌間は同じに見えます。 機関車は河西鉄道のものなのでしょうか?
十勝清水駅から専用線として分岐し、根室本線と7~800m並走後工場内に入ってきました。

上にある工場の写真の右奥に見える高架部分は構造的に国鉄引き込み線と思われます。(大型貨車対応)
高架橋の手前に白く右方向に延びていく2本の線も国鉄引き込み線だった?
河西鉄道の線路も分岐の上、写真でも見れる高架線上からビート(砂糖大根)を落とし込んでいたように思います。
高架橋に上がって行くナベトロ列車の先頭に機関車が見えます、煙出しています。
効率的にビートから砂糖を作る事のできるシステムを持った、先進的な工場であったと思われます。

鉄オタっぽくなってしまいますが、ターンテーブルがどこかにあったかは不明です。 蒸気機関車運用では必須。
ヘロヘロ線路と小型機関車ですから、どっかの片すみにΔ線でもあって方向転換していたのかも知れません・・・

当時の免許状によると、下清水から熊牛を経由し士幌町まで伸びていたことがわかります。 実際の営業は1925年(大正14年)から。

下清水駅は工場の幹部社員社宅のすぐ前にありました。
士幌方面からビートを大量に運びこんでいたことが想像されます。
線路は大きくU字型を描いて工場へ入り込んでいたようです。
工場内にある作業場で車両の保守もしていましたと聞いています。
1926年(大正15年)下清水駅から分岐し国鉄十勝清水駅まで延長され、十勝清水駅の南側に開業しています。 
下清水駅からY分岐になっています。
清水工場の精糖は戦時中に終了しましたが、河西鉄道はそんな騒ぎの中、兄弟会社である十勝鉄道と合併します。
でもトラック運送の利便性から輸送量は増えず、1951年(昭和26年)に全線廃止となりました。

他の方が、いろいろ河西鉄道の事を書かれていますので、そちらの方が参考になると思います。

この回はこれでおしまい。
清水町の「若どりの鳥せい」さ~ん。東京に出店して下さい。

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