十津川と新十津川

たぶん皆さんも十津川(とつかわ)の地名は、奈良県の「十津川」か北海道の「十津川」どちらかでお聞きになったことがあると思います。
二つの十津川の地名の訳は、以下のコラムを見ていただけばわかるように、地域的には離れていますが親子のような縁でつながり、130 年の長きにわたり「母子の村」の縁が続いているのです。
すみません:この項に関しては私のルーツの話が含まれますので、クドクドと書きます。興味の無い方は飛ばし読みしてください】

奈良県十津川村は紀伊半島のほぼど真ん中、奈良県の南端部にあります。
いわゆる紀伊山地の中央部にあるため山また山という場所のためか人口も増えず「十津川」のままです。

北海道の「新十津川」は石狩川中流域にあり、中流域からは石狩川が自分で作ったであろう平坦地が続きます。
ただ平坦地と言っても低い気温ゆえ肥沃な土地とはならず、明治のころは石ころ交じりの泥炭地が広がる荒地に近かったようです。
それでも先人の努力や、国の地盤改良などにより少しづつ農耕地になっていったとのこと。
筆舌に表せないような苦労を経て、今や大穀倉地帯として繁栄し、十津川村の倍近い人口を擁す「町」になっています。
それでも、現在も新十津川町の人々は十津川村を「母村(ぼそん)」と呼び敬愛しているそうです。
 始発が10時って遅っ! 終発が10時って早っ!

奈良県十津川村とは【十津川村HPから抜粋】
 40代目の天武天皇の吉野挙兵(672年・壬申の乱)に十津川の民が出陣し、大きな功があったということで十津川が諸税勅免地となったとか。
 96代目の後醍醐天皇(南朝初代天皇)は、大和国吉野に逃れ、南朝政権を樹立しました。
 十津川は南朝との関係が深く、後醍醐天皇の皇子である護良親王も一時身を寄せていたといわれます。
 後村上天皇(南朝二代目天皇)や興良親王(護良親王の子)が発給したといわれる古文書が今も村に残されています。
 十津川の人々は、狩猟などを生業としており、武術に優れていたこともあって、歴代南朝勢力からも重要視されていたのではないでしょうか。
 豊臣秀長の検地以降、十津川は近世の村組織として組み込まれていきましたが、ご赦免の特権は引き継がれたようです。
 明治時代になり、日本が大きく転換していくなか、十津川の郷士たちは幕末での京都御所の警備や戊辰戦争での功績が認められ士族となりました。
全村民が士族という事に高い誇りがあったそうです。


私の母方の先祖は十津川郷士でありました。 宇宮原と聞いています。
母は父(元平民)に対し世が世なら、結婚できないほどの身分の違いがあったと冗談交じりに話していました。(結婚は終戦後です)
また新十津川に移住してきたときも、皇室から頂いた品を大事にしていたそうですが、祖父が保証人になったため全部逸散したと嘆いていました。
【家訓:保証人には絶対になってはいけない。それで縁が切れるなら本物の縁ではない。】

私が学校を卒業し、就職し新人社員として赴任した地は三重県でした。
三重県に住み始めて数年経った頃、母が突然私のアパートにやってきて十津川に行くと言うのです。
母は東京に出て来て長くなるのに十津川村を「母村」と呼んでいて、十津川村に行かないのは先祖に失礼だというのです。
今まで北海道からも東京からも遠くて行けなかったけど、私の家を基地にして十津川村まで行くんだと・・・
それじゃあ、休みを取って車で一緒に行こうと言うと、あんたは仕事していなさい。 私は列車とバスで一人で行くからと・・・

列車とバスの切符を取り、宿も手配すると、さっさと出発していきました。
向こうで2泊する予定だったのですが、翌日帰ってきてしまいました。
訳を聞くと、「山高く谷深く、おっかねぇところにあるんだ」と言い、宿で泊まっていてもちっとも「あずましくない」(落ち着かない)と言うのです。
確かに十津川郷は正に急峻な山に囲まれ、深い谷が刻まれています。 知っていたはずなのに・
 地理的特徴を簡単に言うなら、紀伊山地は早壮年期と表現され、この頃の特徴として山地起伏は最高で谷壁斜面は最も急傾斜になります。
 急傾斜の山並みに深いV字谷が作られているわけです。
私の母が「山高く谷深く、おっかねぇところにあるんだ」と言った理由はここにあるのです。

TVの紀行番組などで辺境の地として良く取り上げられます、日本一長い路線バスの通う地域としても。
全長169.8㎞、停留所の数は168、かかる時間は6時間30分。 トイレの無い路線バスです。 途中休憩はありますが乗っているだけでも大変そう。
TV番組で一度は見たことがあるのではありませんか?
山肌にへばりつくような道を、運転手さんの腕一つに命をかけて乗車する場面を。(運転中は絶対に話しかけてはいけないらしい)
十津川郷の中流域には「谷瀬(たにぜ)の吊り橋」があります。

十津川で隔てられた上野地と谷瀬を結ぶつり橋は長さ297m高さ54mあるのです。
もう一つ、谷瀬の吊り橋の数キロ下流に「林の吊り橋」もあります。

長さ186m高さ12m。 谷瀬の吊り橋つ比べると100m短く高さも3分の1です・・・なんですが、踏板の幅が小さいうえ横の支え線までが離れていてとても怖いそうです。 (支え線を掴もうとすると踏板に体の半分しか残らないとか・・)

母が「おっかねぇ」と感じた、山にへばりつき谷に落ちそうな宿で思ったこととは・・・
時代は遡り1889年(明治22年)8月に十津川流域で起きた秋雨前線による大規模水害(災害)が発端です。
この水害では十津川郷に壊滅的な被害をもたらし、村民12862人のうち死者168人、全壊・流出家屋426戸、半壊まで含めると全戸数2403戸の1/4にあたる610戸に被害を受けています。
耕地の埋没流失226ha、山林の被害も甚大で、生活の基盤を失った者は約3000人にのぼり、県の役人が「旧形に復するは蓋し三十年の後にあるべし」と記すほどの大災害だったのです。
先祖から代々受け継がれ、住み慣れた土地を捨て、被災者2691人が同年10月北海道に移住することとなり、新十津川村がつくられることになったのです。
祖父母などからこの時の恐ろしさを、繰り返し聞かされたと母から聞きました。 山が崩れる時の地鳴り、倒木と一緒に押し寄せる水の塊。
そういう思いもあり、怖かったのかもですね。

1889年災害では「林の吊り橋」の下流側で、8月20日午前7時頃、中規模の山体崩落(深層崩壊)が発生しましたが(縦330m,横440m,深さ90m)、悪いことに十津川の最狭部の谷に押し寄せ、川の流れを完全に堰き止める提が出来てしまいました。
この堤は十津川の流れを堰き止める河道閉塞を起こし、すでに濁流となっていた十津川の水によりどんどん大きな湖となっていったのです
作られた湖は林新湖と名付けられ湛水標高360m で、湛水高 110m、湛水量1.8 億m3にも達するものだったのです。
(湛水量1.8 億m3とは箱根の芦ノ湖の水量に匹敵するほどです)
湛水高 110mと記録にありますから、山体崩落によって川の水位は本来の河床から一瞬で110mも高くなってしまったようです。
上の写真にある谷瀬の吊り橋とほぼ同じ位置まで水が溜まっていたわけです。
これにより多くの建物が水没し、木造の家々は流されていったのでしょう。
ところが同日深夜12時頃、林新湖を作っていた土砂堤は決壊してしまいます。
110mも溜まっていた水が一気に抜けてしまうって・・・どれほどの濁流を思い描けばよいのでしょう。 
(津波のような大量の水が、滝のようになって急峻な山肌を滑り落ちる様って・・思っただけで恐ろしい)
水に浸かっていた家などと共に、先祖代々からわずかな山肌に作られ耕作してきた段々畑や水田も激しい水流に押し流され破壊されたのでしょう。
生活基盤が一瞬にして失われてしまったのです。 人も収入の基盤も。

もちろん被害を受けたのは、十津川郷の人々だけでなく十津川(熊野川)下流域の新宮町でも大きな被害を被っています。
中でも熊野川中流域の中州にあった熊野本宮大社社殿は大鳥居だけを残して全損し、のちに山寄りに移築されたのは有名な話ですね。

山体崩落の動画を載せますが、怖いものです。 なにせ山の中心部から山体がごっそり崩れるのですから。


ちょっとここで注目してほしいのは動画の30秒過ぎくらいから見える水の動きです。
今回は小規模でしたが、津波(段波)が見て取れます。
2011年(平成23年)9月十津川村では台風第12号による大雨により、明治22年災害に匹敵する災害が再び発生してしまいました。
山体崩壊で発生した段波とその後の洪水により鉄筋コンクリートで作られた関西電力の長殿発電所が完膚なきまでに破壊されています。
水を使って発電しているのに、水で破壊されてしまう。 水の怖さを感じます。
被災前
被災後

吊り橋の話に戻してみると、結局林新湖は崩れたものの、山崩れなどにより大量の土砂が残留し河床は災害前より50~30mも高くなり、また蓄積された土砂により新たにかなり広い河床が出来ています。
谷瀬の吊り橋自体は戦後に作られたものですが(1954年製の70年モノですから、それはそれで怖いところではありますが・・)、水面まで今の倍近い深さがあったとしたら絶対怖くて渡らないですよね。渡れないですよね。
だって水面からの高さが、谷瀬の吊り橋で高さ80m、林の吊り橋で河床の傾斜を考えても60m位になりそうですから。

大災害を受けた十津川村では・・
上のように十津川郷は幕末時に勤皇志士を多く輩出したこともあって、明治天皇の特別な計らいから北海道に移住し、新十津川村を建設しました。


北海道移住-新十津川開拓史(新十津川町HPから 絵:井上正治さん)
 それは水害から始まった・・・
  明治22年8月奈良県吉野郡十津川郷で大水害が発生。奈良県吉野郡一帯をとてつもない豪雨が襲った。
  その中に「鳥も通わぬ十津川の里」と太平記にかかれた山村・十津川村があったのである。
  山や谷壁がなだれ落ち渓谷をせきとめ、せき止められた大量の水が堰を切って濁流となり、怒涛のように向かっていく…。
       
     嵐は数日続いた             川がせき止められ湖が出現
 壊滅的な被害に・・・
  山崩れの負傷者と医師当時、6カ村からなる十津川郷は壊滅的な被害を受けるほどの大水害であった。
  死者168人、全壊・流出家屋426戸、耕地の埋没流失226ha。山林の被害も甚大。
  生活の基盤を失った者は約3000人にのぼり、その救済策が急務であった。
  生活再建のため、移住が話し合われハワイなどの海外や国内の未開懇地が候補にあがった。
       
     今後の生活再建が話し合われた      山崩れの負傷者と医師
 北海道へ移住を決意した・・・
  船で小樽に着く新たな生活地を求めて600戸、2489人が北海道への移住を決断。
  「必ずや第2の郷土を建設する」と固い意図を胸に秘め旅立つことになった。10月に3回に分かれて神戸から船に乗り小樽へ。
  このころ約1200キロ離れた北海道では、屯田兵制度に続いて明治19年には植民計画が採用され、全道的な開発が始まろうとしていた。
  特に樺太経営とロシア南下への防備対策から、石狩平野開拓は緊急課題であった。
       
     故郷を見納め北海道へ          船で小樽に着く
 初めての北海道の冬を・・・
  初めての厳しい冬が訪れる小樽から市来知(現・三笠市)までは汽車で、その後徒歩で空知太(現滝川市)へ。
  病人や老人、子どもは囚人に背負われた。空知太の屯田兵屋は建設中でまだ150戸しかなく、1戸に移民4戸が入った。
  そんな中でも、トック原野への入植準備が進められ、新しい村の名前も決められていった。
  また、一致団結して開拓を成功させようと「移民誓約書」が起草された。
       
     囚人に助けられ雪の中を進む       初めての厳しい冬が訪れる
 雪解けを待って石狩川を渡る・・・
  原生林を測量し、区画割が行われた遅い北海道の雪解けを待って、石狩川を渡り、植民区画の第1号としトック原野に入植した。
  明治23年6月のことであった。
  水害被害から10カ月、政府の保護を受けた十津川移民は、現在につながる最初の一歩をこうして入れることとなった。
  大木が生い茂る未開の大地、厳しい自然が移住者の前に立ちふさがる。
       
     石狩川を船で渡ってトック原野へ     原生林を測量し、区画割が行われた
 困難を極めた開墾・・・
  うっそうと茂った原始林を切り、根を起こし、燃やしながら、少しずつ開墾を進めた。
  十津川人は、元来林業に従事していたので、伐採は得意だったが、笹や草の根が張り詰めた土地を耕す作業は、並大抵なものではなかった。
  蚊やブヨなどに悩まされながら、入植最初の年は、ソバや大根が収穫できたくらいで、北海道の早い冬が訪れていた。
       
     木の伐採から開墾が始まる        開墾に励む村人
 子どもの教育に熱意を注ぐ・・・
  文武両道を尊ぶ十津川の人々。子どもたちの教育には熱心であった。
  開拓に入るとすぐに学校建設に着手し、明治24年3月に、徳富川を挟むで南北に1校ずつ小学校を建てた。
  その後通学の不便解消に学校数も増えていった。
  また、明治28年、母村にならい高等教育の場として私立文武館を建てた。
  この、教育に対する熱意は、今日に至る新十津川の伝統となっている。
       
     子どもの教育には力を入れた       私立文武館
 水田が広がりはじめる・・・
  明治30年代に入ると北陸地方などからの移住者により、水稲の作付けも本格化する。
  夜盗虫の大発生、石狩川の氾濫などの災害に見舞われながらも、着実に農業基盤を固めていった。
  明治35年の二級町村制施行、40年の一級町村制施行へと。きわめて短期間での一級町村昇格は新十津川の急速な発展を示すものであり、
  入植者たちの不屈の取り組みの賜物であったといえる。
       
     米作が始まる              灌漑用の施設整備が行われる
 一大米作地帯へ発展し・・・
  大正期に入ると人口は1万5000人を超え、農業生産力や財政規模の面でも空知管内で屈指の自治体へと成長していく。
  水田の開墾に加えて「玉置坊主」という冷害に強い水稲品種を開発、これによって道内でも第一級の米作地帯となった。
  石狩川の洪水に備えた治水事業もこの時期に取り組まれている。
       
     偶然、実った稲を見つける        大正初期の橋本町の様子
 そして現在へ・・・
  冷害と凶作、そして戦争という厳しい時代を村民たちはよく助け合い乗り越えていった。
  戦争終結と共に息を吹き返した新十津川は、昭和32年1月、ついに念願の町制施行を実現する。
  しかし、昭和30年の1万6199人をピークに人口は減少傾向をたどり、他の多くの農山村と同じく過疎という新たな課題を抱えていく。
  さまざまな時代の変化に揺れながらも、新十津川は未来に向かって着実に歩み続ける。
       
                         現在の街並み

新十津川町民憲章・前文                                     昭和45年10月12日制定
わたしたちのまちは、十津川郷からの団体移住によってひらかれ、たくましい開拓精神と団結の力できずかれた由緒ある町です。
わたしたちは、このまちの町民であることに誇りをもち、たがいのしあわせと郷土の発展をねがい、ここに町民憲章を定めます。
新十津川町民憲章
1 自然を愛し、緑の美しいまちにしましょう
1 心とからだをきたえ、健康で明るいまちにしましょう
1 働くことに誇りをもち、ゆたかなまちにしましょう
1 きまりをよく守り、住みよいまちにしましょう
1 未来に夢をもち、子どものしあわせなまちにしましょう

上の情報は「新十津川町ホームページ」から引用させていただいております。 名前からリンクされます。

こうして。1889 年に発生した十津川大水害に伴う集団移住を契機とする、十津川村と新十津川町の「母子の村」の縁は130 年の長きにわたり続いているのです。
2011 年に発生した紀伊半島大水害では、再び大きな災禍を十津川村に及ぼしました。 上の関西電力の長殿発電所の被災などです。
この折には、新十津川町から職員が災害応援隊として、母村の復旧支援のために訪問しています。

遠く離れた地でのこのような交流は珍しいようですが、十津川出身者の子孫の減少とともに町内に住む人口そのものの減少もあって、
今後どのような形になって行くのか、部外者でありつつ十津川にルーツを持つ一人として気になるところです。

おことわり
1889年(明治22年)8月に発生した大規模災害ですが、私が書くとどうしても十津川村を中心にして書いてしまいます。
この時の災害は決して十津川村だけで起きたものでなく、紀伊半島の広範な地域で同時発生しています。
中でも和歌山県西牟婁郡内では十津川村の十倍近い方が亡くなっています。
この災害で被害を受けた方、皆様のご冥福をお祈りし、筆を置きます。

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