ホンダシビック

私が就職した1973年頃、ヤングはすでに学園紛争を見捨て、その頃のニュージェネレーションとして新しいライフスタイルを形成しつつある中で、その一つとして車を持つことがステータスだったのです。

私が就職したのちの、赴任地は三重県でした。
三重県といえば、中部地方なのでトヨタ車かと思うのは間違い。
三重県鈴鹿市にはホンダ(本田技研工業株式会社)のとても大きな工場がありました。 
鈴鹿サーキットも当時は自動車開発のテストコースの一部であったとか。
 余談ですが、当時ホンダもトヨタも会社に訪問する際、自社のマークの付いた車両以外で訪問すると
 門から離れた場所を駐車場として指定されえらく嫌な思いをしたものです。

私が会社に入って最初は、研修があり、4月から6月いっぱいの期間、研修寮に缶詰状態でした。
それでもテクニカルトレーニング(研修)センターなる場所は、世界的建築設計者である「丹下健三」氏の設計で、ちょっと鼻が高い感じではありました。
デザインばっちり!使いにくさ満点!っていうオチでしたが。
寮とセンターを行き来するのは専用のバスでしたが、いつも車内では車買ったら何にしようかと”けんけんがくがく”
私は前年発売されたホンダシビックがいいなぁ・と思っていたのですが、仲間からは当時のホンダの軽自動車N360を膨らませただけで、ダメダメと酷評され続けていました。
ところが研修の最後に赴任地が言い渡され、前に書いたように三重(四日市)でしたので、これはホンダと縁があるのかと思ったものです。

給料が手に入ったので早速クルマを買おうと思ったのですが、当時ホンダには四輪車の販売ルートがなかったのです。
電話帳で探した「四日市ホンダ」(確か一木さんが社長だったと思います)に電話して訪問したのです。
行ってびっくり、自動車販売店というより街のバイク屋さんです(失礼)。
それでも社長の人となりに触れて、さっそく契約。
ホンダシビックのオーナーになりました。


良く走る車でした。
初期型は1200ccしかありませんでしたが、車体が軽いこともあり、カチッカチッと決まるシフトレバーの感触とともに抜群のフィーリング。
今でもクルマってあんなものとあるべきと思っています。 初期型サニーも良かったですね(エンジンフードを開けるとほぼ下の道路が丸見えでした)

おかげで、何回捕まったか・・・

その後、1976年にホンダアコードが出ましたので乗り換えました。
デザインとともに、排ガス規制を世界に先駆けてクリアしたことも気に入りました。
が・CVCCエンジンの吹けの悪さというか、エンジンの反応の悪さには参りましたね。 シビックの反応の良さとは正反対。
それでもクーラーが付いていたのでチョー快適、クーラー無しシビックの夏の暑さにはたまりませんでしたから。

冬は毎週、三重県から志賀や八方に行ってました。
スパイク(スタッド付き)タイヤでビービーと大きな音を立てながら・・・
しかしスパイクタイヤの安心感はハンパなかったです、だってブルーアイスのアイスバーンの下り坂で確実に止まってくれましたから。

新しく「HONDA-e」なる車が発売されますています。

「ホンダシビック」と共通点を多く感じます。
「これで良い!」という割り切り感と「どうだ!」と言う自信感、そしてかわいらしさ感。
宗一郎社長の「満面の笑み」を感じます・・・が、下を向いて「高けぇなぁ」という声も聞こえてくるような・・・

コメント