「太陽の丘」(NHKさん勝手に記事にしてごめんなさい)

皆さんNHKで放送されていた「太陽の丘」ってドラマご存じですか?
知らない? まぁ無理もないかもしれません。 55年近く前のドラマですから。

1966年(昭和41年)4月5日より1967年(昭和42年)3月28日までの毎週火曜日夜8時からのゴールデンタイムに全49話にわたって放送されていたんです。
毎週1時間ずつ、まるまる1年間通しでやるのですから大作でした。

このドラマがスタートすると、ユースホステル関係者はもとより、たちまち一般家庭の人気番組となりました。
(・だ・そうです、私も見ていましたが・・)
伊豆にある「八代ユースホステル(架空のYHです)」を舞台に、森繁久彌を中心としたペアレント一家と訪れるホステラーとの交流を描いていました。
若者たちの織りなす喜怒哀楽とともに、ホステルにおいて起こるいろいろな問題も盛り込まれていて、ドラマとしての評価も高かったです。
また、ユースホステルというものを、一般の人々に広く知らしめた功績は抜群のものでした。

まだこの頃は森繁久彌も押しつけがましい言葉や表現は少なく、いいオヤジ感が出ていました。(演出にもよるのでしょうが)
私も学生生活と学生運動の狭間の中で何度か「ああ・そうだ」と自分を思い直すチャンスをもらいました。
目的の見えない学生運動ですさんだ心に、こっちにこいよと誘ってくれた気がします。
今思うに、いい番組でした。

しかし主人公「邦住」に七人も子供がいるとは・・
毎晩の食事が、団欒が、それ自体ユースの生活みたいでは?
森繁さんのこの番組出演の直前の出演作が確か民放の「七人の孫」だったように記憶?  七人?それと関係あるのか?

主題歌はコレ

では早速「八代ユースホステル」におじゃましま~す。


ペアレントご夫妻

その家族



ドラマに出演していた三男役ヤッチンこと田辺靖雄さんと次女役コメットさんこと九重佑三子さんはこの番組が契機かどうかは知りませんが1973年に結婚されましたね。 ご媒酌人は森繁久彌夫妻だったとか・・・
他のページにもあったと思いますが、日本ユースホステル協会制定の「ユースホステルの歌」、番組の中で歌っていたかは記憶がありません。

ところで、このドラマ「太陽の丘」のモデルになったYHが存在するそうで、私も小耳にはさんだことがあります。
伊豆にある「伊豆臼井ユースホステル」がモデルです。 残念ながら私は行ったことはありません。
「舎長の思い出」というブログに「伊豆臼井ユースホステル」の事が詳しく載っています。
http://usui-taka.seesaa.net/article/424335159.html
 
文末に「頗る有益」と書いてあります。 すこぶるなんて読めないよ・・・

    で!

伊豆にある八代ユースホステルとペアレントとその一家と、そこを訪れるホステラーとの交流が劇中で描かれていました。
森繁の演ずるペアレントと、そこを訪れるホステラーとの交流が巧みに描かれていました。
人間の織りなす喜怒哀楽とともに、ホステルにおいて起こるいろいろな問題も盛り込まれていました。
私の親戚が(遠い親戚ですが)北海道のある島でユースホステルをしていたこともあり妙に親近感をもって番組を見ていました。(妙に、というのも変ですね、へ~そんなことをしているんだぁ。 というのが本当かな)
その頃はユースホステル活動を自分がする、なんて思っていませんでしたが・・・

話を聞いてくれる「おやじ(ペアレント)」がいて「旅人(ホステラー)」との心温まる交流を描いた内容は、当時荒みかけた(すさんでいた!)私の心に「こっちにこいと」声をかけてくれていたようにも思います。
ちょうど団塊の世代として多感な?青春時代を送っていた私にとって?その頃の学生運動は大きな意味を持っていました。(と思っていたのです)
でも自分がよく見えていなかった感は否めません、 今思うに流れに巻き込まれていただけなのかもしれません、恥ずかしながら。

私が高校生だったころ、大学と一緒の高校だっただけに激しい学生運動にさらされている毎日でした。
日常的に使う駅前広場も、毎日大看板が建てられ・フォーク集会が開かれ・アジ演説が流れ、規制しようする機動隊と対峙する荒んだ街でした。

学生運動はどんどんと激しさを増し、過激になります。(1968年(昭和43年)には後に新宿騒乱と呼ばれる新宿駅の全てが破壊される大事件がありました)
あちこちの大学は入試すらできない事態となり、私もご多分に漏れず浪人生です。
(単なる責任転嫁か、自己批判しなくては・・)
学生運動の渦は大きく抜け出ようと思っても、また渦の中に引き戻され、そんな繰り返しから警察にご厄介になるよう事まで・・・ 時間だけは待っていることなどなく通り過ぎていきます。

そんな時一人の友人が一緒に旅に出ようと誘ってくれたのです。 どうってことのない旅です。
1970年(昭和45年)3月から開催された、そう、あの日本万国博覧会(大阪万博)だったのです。
色々な意味で行くことは、日向って(ひよって・・意味わかりますか?)しまうのではないかと、躊躇と葛藤はありましたが(笑)
宿は近場では取れなかったようで、京都の宇多野ユースホステルでした。
そう、ここが私の旅の原点になったのです。
宇多野ユースホステルは公営(京都市営)でしたのでYH会員も非会員も分け隔てなく接してくれました。
ミーティングの時、他愛のないゲームをし、他愛のない歌を歌いました。
でも、今までにない感覚が芽生えてきました。
論理だけの連帯とは違う世界なのです。
学生運動と真逆のような、つながるような・・・ 人と人がつながる感じ。 わぉ!
そこから少しずつですかね。 今までの時間を取り戻すかのようにユースホステル活動に入り込んでいくのは。

まず最初は、土地勘のある北海道なら間違いないだろうという事で1970年(昭和45年)8月17日からの北海道一周ホステリングに申し込みをしました。
北回りコースを申し込みましたが、パンフレットには北回りの最終日は8月17日と書かれています。
最終日の回に乗ったようです。 リーダーは水野利通くん。(くんって、先輩ですが) この回のことはホステリングバスの項に書きますね。
この時にYH会員証を初めて取得しました。

そのへんの事はまた別項で紹介しますね。

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