南回り14回 第8日目 8月14日(月)


養老牛青年の家ユースホステルを出発します。

近くにある開陽台展望台へ向かいます。
昔から根釧台地の展望台として有名です。 「地球が丸く見える」と言われた展望台です。
根釧原野に広がる格子状防風林と野付半島から国後島へのスケールの大きな展望を見る事が出来ました。
「地球が丸く見える」と書かれた塔は昔からありました。 今もほぼ同じ形でのこっていますが、たぶん何代目かなのでしょう。
今はお城のような展望台(3代目)ですが、私たちが行った頃のは(2代目)簡素な造りで、階段を上がると展望台になっていました。
その2代目はカニ族のあとやってきたミツバチ族によりカメハウスと呼ばれる野宿基地になっていました。

開陽台は本当に行きにくいところで、ここだけ行くのは当時の徒歩旅ホステラーでは無理でした。
確か中標津駅からバス「武佐」行きで30分、そこから徒歩で小1時間ぐらいかかったかも。
バスも朝夕の2便だけでしたから・・・ 
もっとも昨日泊まった養老牛だって朝昼夕の3便でしたけど。
ホスバスは普通行けないところに行けっちゃったのですからgoodでしょ。

中標津の雪印チーズ工場を見学、チーズでなくアイスクリームをいただきました。 ホスバスgoodでしょ。

パイロットファームと呼ばれた根釧台地に広がる大規模農場を見ながら尾岱沼へ向かいます。

尾岱沼YHで作ってもらったお弁当を手に、トドワラ観光船に乗ってと・・

こちらの動画には開陽台と野付半島が入っています
尾岱沼のある野付半島は、かぎ針状に根室海峡に突き出る日本最大級の砂の半島で全長25km以上あるそうです。
知床半島と国後島の間を通ってきた宗谷暖流・東樺太海流などの海流が「くの字」に曲がり,羅臼から根室標津あたりに強く衝突する事により砂を残し砂洲が発達したようです。
大きな野付半島ですが、土木学会論文によると地域(釧路・根室・網走)では地盤沈下が続き年1.5㎝以上ともいわれ、ここ90年では1.2m以上沈下したそうです。
さらに近年の国内の河川改修や港湾改修などにより砂の供給や流れが変わったことから、堆積する砂の量や場所も変わり地盤沈下と合わせて野付半島は年々、目に見える程のスピードで痩せているのです。
私たちが行ったトドワラは、近いうちにトドワラ跡になっちゃうと想像できます。
野付湾・野付半島としてラムサール条約の登録湿地にもなっていますがいつまで持つのでしょう。

尾岱沼のうたせ船 

【伝説?】
野付半島は国後島に近く、また近隣で水揚げされる羅臼昆布やニシン・サケなどの生産拠点でもあり、北前交易に長けた江戸時代の廻船問屋がこの地に居を構えていたようです。
まぁ番頭が直接来るはずもなく、手代がやってくる、今でいうところの出張所のようなような存在だったのでしょうね。
江戸時代には野付半島の先端部に番屋が建ち並んでいたらしく、今も土塁や溝、敷石などが残されています。
また尖端から二番目の岬の基部には「野付通行屋」の跡があります。
寛政11年(1799年)に、幕府が国後(くなしり)に渡る中継点、さらには根室・厚岸・目梨(羅臼)方面の交通の拠点として設けたのもです。

地元の伝承でば半島先端部には幻の町キラクがあり、金持ちの旦那衆を目当てに遊郭もあったとか。
遊郭はともかく野付通行屋と周辺のニシン番屋などがあったことは事実とされ、実際に生活の遺構や墓地などが残されています。

ー以下 北海道STYLEのHP・【知られざる北海道】vol.13 野付半島先端にあった「幻の町・キラク」、から引用させていただきますー

江戸時代の後半には、豊かな漁業基地、日本とロシアの交易と国境問題で、野付半島は歴史の中心でもあったのです。
昭和38年、野付半島先端部を「探検」した北海道大探検部の記録には、「地元の人々にキラク町と呼ばれている場所がある。キラクの由来は気が楽になるところという意味で、かつてここにこの付近の人々のための歓楽の場があったことに由来するらしく・・・」と記されていますが、キラクという名の由来はちょっと違うように思います。

キラクはロシア南部にいるウィルタ民族(オロッコ)の言葉で「神」を意味しています。
和人が喜楽、気楽、嬉楽という漢字を当てはめたというが事実でしょう。江戸時代、国後島への渡航の基地でもある半島の先端部に漁業基地、そして北方交易の中継地として50戸ほどの家があったということは歴史的な事実。
残念ながら松浦武四郎の地図や古文書にも「キラク」という文字は記されていません。
別海町では先端部の遺跡を「野付通行屋・番屋跡遺跡」と呼んでいます。

寛政11年(1799年)に設置された野付通行屋には、支配人とその妻、アイヌの人足が詰めていたようです。
幕末の安政年間頃(1854年~1859年)にこの通行屋の支配人をし、アイヌ語通辞(つうじ・通訳者)として活躍、「加賀家文書」を書き残したのが加賀伝蔵で、松浦武四郎による記述など多くの文献史料に登場します。
野付半島の先端に暮らし、畑をつくり作物を栽培したとの記録が残されていますが、現在でも野付通行屋跡遺跡には、畑の畝跡が広い範囲で確認することができるのです。
陶磁器や古銭など平成15年〜17年の調査で1万2000点もの陶磁器や古銭などが発掘されていますが、まだ半分が未発掘になっています。

ちなみに、加賀伝蔵や「野付通行屋・番屋跡遺跡」に関する資料は、別海市街にある「別海町郷土資料館」に展示されています。

別海町郷土資料館を取材すると、
「野付通行屋には通行屋、下宿所、蔵などが建てられました。さらに野付崎の外海は、春の鰊(にしん)漁の時期になると根室地方の各番屋から人々が集まり、居小屋、蔵などが 50~60軒建ち並び出張番屋群が形成されました」
と、ここまでは歴史的な事実。
野付通行屋跡遺跡には江戸時代の残る墓石も残されていますし、野付番屋跡遺跡は、もはや海の下に没していますが、海が引いたときには食器や鉄鍋などの生活用品が散乱しているのを見学することができます。
「キラクという文字は残念ながら文献史料には見当たりません。野付通行屋や番屋群、それらに関る人々の営みがあったことなどがこの伝説を作り上げたように思われます」
と、これが別海町郷土資料館の公式見解なのだそうです。
と、ここまでは歴史的な事実。
野付通行屋跡遺跡には江戸時代の残る墓石も残されていますし、野付番屋跡遺跡は、もはや海の下に没していますが、海が引いたときには食器や鉄鍋などの生活用品が散乱しているのを見学することができます。

ーここまで引用させてもらいましたー  引用先 https://hokkaido-travel.com/unknown-hokkaido/kiraku/

【で!】
野付半島の下(南側)に風連湖という湖があります。
野付半島とは逆に海側はのっぺらとして陸地側に湿地帯が広がる大きな汽水湖です。
サロマ湖と同じように南北から砂洲(砂嘴)が伸びているのですが、北側の砂洲(砂嘴)の上に走古丹という小さい街があります。
いつだったか覚えていないのですが(1980年頃の確か6月終わり頃)走古丹に行きましたが、人もいず見るべきものも無いのかなと・・
そう思って街中に入っていったら・・・
お祭りをやっていて大きな船形の山車はあるは、町中は超派手な飾り物で飾り付けらていて・・
失礼な話ですが、え・なんでこんな小さな町でとお祭りの派手さと大きさに超ビックリしたものです。
一緒だった相方も度肝を抜かれたと話していたくらいですから・・・
 小さな町に似合わない大きさの神社「走古丹稲荷神社」、往時の繁栄がしのばれます。
今はもうそんな祭りは無いのかもしれませんが、キラクの話を聞いた時、距離の近さや、砂洲の上に立つ街並みと言い、昔からかの地あたりでは、お金持ち旦那衆がいて故郷を想いながらド派手なお祭りをやっていたのかもしれないという思いを今も持ち続けています。
キラク伝説はあり得るかもしれません、そう思うと楽しいような悲しいような・・・
そして、野付通行屋跡が走古丹の町にあったのではと思うと、別の意味で楽しいような・・・
走古丹のある町「別海町」の「別海町郷土資料館だより」も参考にしてください。
【2021.6.28追記】
今はもうそんな祭りは無いのかもしれませんが・・・と書きましたが、な・な・なんとgooglemapに祭りの現代版が写っているではありませんか

場所は下の地図「風連湖と東北岸」のA地点です。 さすがに現代風トラック仕立てで見物人もいませんがトラックの荷台には千両箱がいっぱい。
お祭りで千両箱かいな、千両箱のあるお祭りなんて聞いたことないぞ。
やっぱり、よっぽど儲かっていた土地だったようです・・


下の地図は風連湖の下側(南側)です。

春国岱(しゅんくにたい)と呼ばれる風連湖に伸びる砂嘴で出来た島に渡れます。
先ほどからお話ししている走古丹(尾岱沼側)からは行けません。 南側の国道の東梅バス停から行きました。
今は「春国岱原生野鳥公園ネイチャーセンター」(長い名前だこと・・)がバス停近くにありますので、情報を得てから行きましょう。
春国岱のあるあたりの風連湖は浅く、エゾシカもクマも春国岱に渡って来ます。 春国岱は身を隠す場所はありません。
クマは私も春国岱で何度か見ています。 ネーチャーセンターで必ずクマ情報を得てください。
知床で番屋の爺さんが怒鳴りつけると逃げていくNHKの映像が出ましたが、あれは本当に特別な話です。
あなたがクマに齧られるのはあなたの自由ですが、齧ったクマは必ず殺されます。

さてさて、尾岱沼(野付半島)でまた大きく脱線しました。
今夜の宿の「知床観光ホテル」へ向かいます。 名前は観光ホテルですが、ホテル(旅館)の一部を使ってユースホステルにしています。
当時は羅臼で行き止まりなので車の量は多くありません。 バスも。
今でこそ知床横断道路がありますので、交通量は多くひっきりなし・という感じですが、昔は羅臼の観光はほとんどありませんでした。
羅臼で行き止まりと言いましたが、正しくは「海の温泉・セセキ温泉」を通り相泊までバスが通っていました。
今も相泊・セセキで道は切れます、世界自然遺産に指定されたおかげです。 ありがたいことです。(地元の人には叱られる・・・)
その頃羅臼まで行く旅人は知床を回る周遊船に乗るか、羅臼でトド肉を食べる物好きかと言われる程でした。(笑) 【トド肉おいしくないよ】

おいしくないと言えば小笠原で食べたアオウミガメの「カメ煮」もちょっとね。(私の味覚には・・)
重要 【母島主催の母島フェスティバルで食べたんです・密漁ではありませんからね】
小笠原村観光局のHPにも母島フェスティバルが書かれています、こちらから
小笠原と言えば船「小笠原丸」も新しくなり、東京⇔小笠原が24時間と2時間も短縮されましたね。

行きやすくなったのかと思いきや、船のローテーションは変わらないのでやっぱり「行って帰って」で一週間(6日間)ですが・・・

脱船!しました。

現地に行けない人は缶詰などいかが?  ただしおススメできるものではありません。

羅臼には道沿いに森下旅館という旅館兼業YHがありますが、今夜の宿は上にも書いた「知床観光ホテル」です。
でも直接行かずに通り過ぎて羅臼の街の先にあるヒカリゴケが自生するマッカウス洞窟に向かいます。 ヒカリゴケは国の天然記念物なんです。
ここは安政5年に北海道の名付け親「松浦武四郎」が発見し野宿に使用されたとなっていますが、ヒカリゴケの存在は記されていないのでたぶんわからなかったんでしょうね。
その後「北の国から」の純と結のデートのロケで使用された場所らしいですが、私はその話を知りません。
ヒカリゴケはレンズ状の細胞が集まっていて、その細胞が反射させるため緑色に輝いて見えるのです。 コケが光を発しているわけではありません。
洞窟の入り口部分の落盤により、現在は立ち入りが規制されていて見ることは出来ません。
見ることが出来て良かったですね。

「知床観光ホテル」は羅臼港から少し離れた場所にありました。
当時は羅臼川に沿った道のどん詰まりにありましたが、今は知床横断道路が開通し道路沿いの好立地です、が・平成に入って廃業となっています。
ちなみに知床横断道路は1980年(昭和55年)に開通しています。 私たちのバスの8年後ですね。
この道路の開通によって知床半島周遊船は無くなってしまました。 
そして航路の廃止によって、多くの方が知床の自然と不当占拠されている北方領土を感じる機会が失われてしまいました。
羅臼から宇登呂まで山道をチョイと40分ほど。 周遊船で4時間20分もかかっていたことを思うと本当に便利になりました。
て・いうか、そんなんで知床見たとは言えないの・・ わかるかなぁ?
そうは言っても、観光なんて人それぞれで感じ方も違うし、とらえ方も求めるものも違いますよね。 私があれこれ言うのは筋違いかも・・

 1966年(昭和41年)10月開所

今日の宿泊スタンプ・・ペタ! 

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