南回り14回 第9日目 8月15日(火)

ホステリングバス最大のハイライト、今や世界自然遺産にも登録された知床半島を船で周遊します。
私たちが行った頃は本当に北海道の自然を楽しみたいという旅人ばかりが集まる船でした。
でも学生ホステラーにとってこの知床半島周遊船は高かったんです。

東京からの国鉄北海道均一周遊券が学割だと7.440円のところ知床観光船は1.560円もしましたから。(1970年頃)
朝早くの出航です、ラウスとウトロを同時刻5:45です。 乗客は6~70人ほど、ホスバスに乗ったみんなで乗客の半分以上です。
この知床半島周遊船もホスバスがあっての運行だったのでしょうか? 夏休みが終わるとさっさと休航でしたから。

出発前に羅臼のお話、と言っても映画「地の果てに生きるもの」です。 「知床旅情」の歌に繋がります。

知床先端部の番屋に暮らす村田彦市老人の物語。 (村田彦市=森繁久彌)

知床の番屋での生活はあまりに過酷で、長男は流氷にさらわれ死に、次男も戦争で失う。 妻のおかつも真冬に急性の肺炎となり、なんとか病院へ運んだが亡くなってしまった。
東京から呼び戻した三男であったが、嵐の海で亡くし(ここ重要:撮影前年に実際に羅臼で起きた大災害が下敷き)一人身となってしまった彦市老人は誰もいない冬の番屋で暮らすのである。
しかし・・・

映画では多くの村民がエキストラとして参加したそうです。
突然の嵐で息子を失うシーンでは、彦市の心拍の演技に村民は前年の大災害を思ったか皆泣き、森繁を含めたスタッフ全員も泣いたそうです。
こうして一体感の生まれた町民たちとの交流から、ロケが終わり、明日でお別れという前夜、森繫さんが羅臼村の村長の家を訪ねた。
「明日はこの歌を歌ってほしい」と、自身が作詞作曲した「さらばラウスよ」を披露した。
翌朝、滞在していた栄屋旅館の前に張り出し、ギターを手にしてこう語ったとか。
「日本は人情の機微が紙より薄いと言われていますが、僕は羅臼の人情に触れました。お世話になった皆さんの後々のために歌を作りました。この歌を歌って別れましょう」
と言って歌い始めた。 1960年7月のことだった。
 写真:羅臼郷土博物館
 写真:羅臼郷土博物館
そしてその年の秋、「知床旅情」に改題された曲の譜面と、映画のパンフレットが村に届いた。
ロケ地として羅臼・斜里・網走で撮影が行われたので、人情の機微から題名を羅臼から知床に変えたのか?とも言われている。 (大人の対応ってやつね)
まぁ話としては、うまく出来過ぎ感はアリアリですかね。 まぁ私たちも大人の対応をしましょう、と言う事で・・・
トキ姉が歌った知床旅情は北回り5日目で見てくださいね。

「知床旅情」は加藤登紀子がギターを手に歌ってヒットしたため、何となくフォークソングといわれるが、すでに国民的歌謡の域に達しています。
が・「知床旅情」には「さらばラウスよ」と比べて大きな問題点が。 個人的に許せないと言うか・・
二番の歌詞の「君を今宵こそ だきしめんと」は「今宵こそ君を ・・」と少し弱い意味合いを持って歌われるようになりました。
「君を」を強調することで情熱がしっかりと伝わっています!  さすが森繁爺!すごい
三番の歌詞の「白いカモメを」が登紀子バージョンでは「白いカモメよ」になってます。
「忘れちゃいやだよ 気まぐれガラスさん 私を泣かすな 白いカモメを」
気まぐれカラスさん=東京から来た旅人さん
白いカモメを=ラウスの人
だから
【忘れちゃいやだよ 気まぐれガラスさん 私を泣かすな        白いカモメを】
(忘れないでね   旅人さん      忘れて私を泣かさないでね  ラウスに残る私を)
と、受け取るのが森繁爺の想いだと思うのですが。
まぁ個人的にごにょごにょいっても、意味ないかな・・ 面倒くさい奴と思われるだけかも・ネ

私的には歌そのものも「しぃれぃ、とこほぉ、の↑ぉ、みんさき~にひ~」と歌う森繁節の方が好みでありますが・

ところでもう一曲
「オホーツクの舟歌」という歌もあります。 聞いたことありますか?
バックに「おーしこい・おーしこい」と掛け声のかかるやつです。
以前よりラウスで歌われてきた歌を、映画「地の果てに生きるもの」のロケハンに来た助監督が気に入り、採詞・採譜し森繁久彌に伝えた。
それを元にして森繁久彌が「さらばラウスよ」と題した歌詞と曲を付けて披露したのでは。 (早い話が替え歌か?)
そうでなければ翌朝宿舎前に張り出されたという新しい歌を400名近くも集まったといわれる村民たちとともに歌いきれないと思うけど?
この時、助監督が採詞・採譜したものが「オホーツクの舟歌」(名前は?ですが)だったのではないでしょうか。
人によって「さらばラウスよ」や「オホーツクの舟歌」が「知床旅情」の替え歌のように思っているようですが実は違うと思うのです。
「オホーツクの舟歌」→「さらばラウスよ」→「知床旅情」の流れが正解と思います。

 歌の前ぶりの詩の部分はその後の作り物でしょうが・・・

2019年の冬から私の住む近くの駅でこんな事が・・確かに森繁通りとかはありましたが、まさかこんなところで聞くとは

さて本題に戻り・・・
ラウス発5時45分の出帆です。
 たぶん右のチケットで乗船したと思います、左のチケットは?
この日もお天気は良く、安定した航海が楽しめそうです。
私はと言えば、北回りの失敗(酔い止め薬の大量摂取)を繰り返さないように用心します。(適量摂取)
イルカやクジラがいますがシャチはいなかった。(ように思う)
船の進行方向右手にはずっと日本固有の領土でありながら、ある国の自分勝手な論理から占有されている国後島を見ながら北上していきます。
知床半島南岸は、北岸に比べて断崖や滝などの派手さが無いので人気薄ですが、国後水道にやってくる多様な生物たちを見れるので見るべきものは多いです。

船は進み、知床半島先端の風船岩を見ながらオホーツク海に入ります。  風船岩ポッキリ事件は北回り5日目でネ!

知床半島先端の奇岩(風船岩)を見ながらウトロに到着です。

この時点での時刻は、まだ10時を少し回ったところです。
ウトロYHで休憩させていただきます。
みんなオロンコ岩とか登ってウトロを楽しんだ後・・・お昼ご飯ですが、ウトロYHで食事したか?お弁当をもらったのでしょうか?記憶がありません。
知床五湖へ行きます、五湖めぐりは北回りと違いたっぷり時間があるので、ゆっくりと回ります。
確かその頃は3湖からオホーツク海を望める崖っぷちまで行けたと思うんです。 いまは世界自然遺産保全のためコース以外は絶対いけないようになってます。
そんなバカなことをしながらも、熊さんにだけは会いたくないです。
でも大勢の話し声が「わいわいがやがや」する最初にので熊さん来ないとは思います。
知床五湖をゆっくりと楽しんだ後、今日の宿泊地「斜里YH」へ向かいます。

再度岩尾別YHを右に見ます、ひっそりした岩尾別川沿いにありますが実はこの川、秋になるとヒグマがサケを捕食に来る川でした。
 1968年(昭和43年)2月開所
岩尾別YHを訪ねたホステラーの一人「さとう宗幸」さんが思いを込めて作ったのが「岩尾別旅情」
残念なことにレコード化され広く知られたのは1978年ですから、ホスバスでは歌えませんでした。 残念!


岩尾別の風景・左「岩尾別海岸」と右「岩尾別川と知床連山」少し前の絵葉書から

オシンコシン滝を過ぎると「遠音別川」を渡ります。
こんな歌が歌われていました。

で・斜里YHに到着です。
本当にいろいろな意味で有名なYHでした。
 1963年(昭和38年)1月開所

今日の宿泊スタンプ・・ペタ! 

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