北回り12回 第5日目 7月25日(火)


知床半島を一周する船の旅は、北海道旅行のハイライトです。
  

でも本当の事言うとリーダーは船に弱いのです、 船?・・・全然ダメ。
ダメ ダメ!!! 陸路で行きたい、けど責任上それは許されない。

ウトロはいい天気でした、でも知床は油断できないぞ。
知床岬を回ってラウス側に入るとお天気急変は普通のこと、波のうねりも全く違うのです。

朝5時30分オロンコ岩を見ながらオホーツク海へ出港!!
南風なのかとりあえずほぼ凪です、さっさとYHから運び込まれた朝ごはん(お弁当)を食べます。

和歌山県橋本市から一人旅の女子高生「ひよっこちゃん」も元気です。(写真・パチリ:非公開
2時間ほどすると知床岬です。

私たちが行った時は、知床ってまだ世界遺産にも登録されていませんでしたね。
知床岬を回って国後島が見えてきた時、いかにも最果ての地に来たんだって強く感じましたよ。
そうだね、ソビエト・ロシアに不法占領されている北方領土は目に見える国境でもあるしね。
本来は歴史的に見ても日本のれっきとした領土なんだよ。 不当に占拠されていることを忘れないようにしよう!
ところで最近の知床岬の写真の撮り方が変わった事に気が付かない??
確かに、私たちの見た知床岬の風景と違う感じはうすうす感じていましたが、何が違うのかわからないです?
まずこの2枚の写真を見てください
  
こうしてみると一目瞭然。 左の写真にある大きな岩「風船岩」が最近の写真には写っていないのです。
古くから知床岬のシンボルとして存在し、1963年(昭和38年)に知床岬灯台が出来るまで近海を航行する船や漁船に
とって大切な目印だったらしい。
今はもう写せない・・・どうやら1974年(昭和49年)流氷の力により「ポキッ」っと海中に没した模様。
なので写せない・・・  最近の写真に写らないのはそういうことなのです。
知床岬を画像で残す場合や映画にする場合も必ずこの風船岩をランドマークとして入れていましたから、写っていない写真・動画に違和感を感じるのです。
私たちは直接、目に焼き付けられたのですごくラッキーでした!

風船岩の大きい画像

当時の地図にはちゃんと「風船岩」の記述があります。

岬を回るとなんか白波も見え始めてきました、あ~どうしよう・・
実は乗船名簿を出したとき、船会社の窓口で酔い止めいっぱい貰らっていたのです。
飲まなくてもいい人も多かったので余った分をお弁当食べるとき飲んでしまった・・・
結果ラウス側の景観を見ることなく、腹痛と睡魔に襲われ、船底にある部屋でずっと寝てました。
オホーツク海の冷たい海のせいで船体も冷えきっているのか、船室は睡眠薬の成分で寝ていても寒くて目が覚めるほど。
寝てもすぐ目が覚め、すぐまた眠りに落ちる・・・
よって航海中の事は、無かったことに・・・ 聞いた話ではイルカがいたとか、クジラがいたとか・・・ 揺れたとか・・・揺れなかったとか・・

船はウトロ5:30発、ラウス9:50到着、4時間20分の航海でした。 青函連絡船でも3時間50分だったのに・・・
それでも時間がたち、私もようやく元に戻りつつあります。 羅臼に近づくにつれて船の揺れも収まってきたようです。

4日目に歌った「知床旅情」ですが、ラウスに住む人には特別な思いがあるようです。
下の写真(森繁久彌自書歌詞)にあるように、1960年の映画『地の涯に生きるもの』の撮影で羅臼村に長期滞在した際に制作され、その最終日に羅臼の人々の前で「さらばラウスよ」という曲名で披露されたもので、ラウスの人達はおらが村の歌と思っています。

三番の歌詞「別れの日は来た ラウスの村にも」のところはいつの間にか「知床の村にも」に変わっています。
二番の歌詞も「君を今宵こそ だきしめんと」は「今宵こそ君を」と少し弱い意味合いを持って歌われるようになりました。
でも森繁さんも登紀子さんも、どちらの歌詞でも歌っていますので、いまさら気にしないっす。


私的には「しぃれぃ、とこほぉ、の↑ぉ、みんさき~にひ~」と歌う森繁節の方が好みでありますが・・・

ラウスにつくとバスが待っていてくれます、ガイドさんがみんなにやさしく船酔いは大丈夫ですかと声をかけてくれます。
「全然大丈夫ですよ」とピースサイン。 へへへ・・・!
バスは陸路を回送してきてくれているのです。。
前に書いたように北海道の舗装道路は、この頃国道・道道の幹線部分だけで舗装率27%となっています。
もちろん知床峠経由の道路などないので、バスは宇登呂から斜里経由で羅臼まで非舗装道路をオーバーヒート寸前になりながらの回送だったと思います。
安田由美子」さんが書かれた「 右手に見えますのは… 」にも、回送は大変だったと書かれています。

ラウスの港を出発した後、尾岱沼とは反対側(知床岬側)へ進み、ちょっとだけマッカウス洞窟にある北海道天然記念物「ヒカリゴケ」を見に行きます。
今この洞窟は崩落の危険性があるため、入ることはかないませんが私たちは見ることが出来ました。
まぁヒカリゴケと言っても自発光するわけでなく「外光をレンズ状細胞が緑色に反射するだけ」で、どうっていう事はないのですが、それでも天然記念物なのでヘェ~と見ましたね。
それよっか「ヒカリゴケ」事件と言われた、おぞましい猟奇事件の方が気になりますが・・知らない方がいいかもです。

さぁ、今度こそ尾岱沼に向け出発です。 尾岱沼は最近あまり注目されない場所ですが、当時は日常的でない風景と国後島がまじかに見える所として結構賑わっていました。
尾岱沼の真ん中辺にある「トドワラ」は殺伐とした風景です。
ここは上高地の大正池と同じように風化が進み、今は立ち枯れたトドマツの数が激減しています。
私たちが行った頃はまだこのように枯れ木が多数残っていて「この世の果て」的な言葉が似合っていました。
 「旅の日記」さんからお借りしました。
今は野付半島の中ほどまで道路ができ、歩いて行けないことは無いですが、その頃は尾岱沼漁港から観光船に乗って行くしかなかったです。
 きょう2枚目の乗船券

観光船に乗る前に、港の入り口で売っているホッカイ縞エビの茹で立てをザルいっぱい買いこみます。
その頃縞エビはそれほど有名ではなかったし、物流技術(冷蔵・冷凍)も進んでいなかったため地元消費専用で、そこそこ安かった記憶があります。
今では地元でも簡単に口に入らない高級食材ですものね。
船上のベンチに並んでむしゃむしゃとかぶりつきます、これが旨いんだな・・ 食べ残した頭や尻尾はポイポイと海に投げ込みます。
きっと次のホッカイ縞エビたちの食糧になるでしょう。
ひょっとしてみんなトドワラの記憶よりホッカイ縞エビの想い出の方が記憶に残っているのでは?
トドワラでは30分ほどの周遊時間があります。
トドワラだ、ナラワラだ、と遊んでいると「船が出るぞー」という船長の大声。
あわてて長ーい桟橋を走って船に戻り、尾岱沼YHへ戻ります。
ホッカイ縞エビは資源保護のため打瀬船(うたせ船)という風任せの船で捕っています、これがまたいい風景で・・・

夕食後、港に出て花火をやりましたね。

 1961年(昭和41年)3月楠旅館兼業YHとして開所
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ミーテイングで歌った歌

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