南回り14回 第10日目 8月16日(水)


斜里YHを出発。 今日は斜里町の隣町、小清水町まで直線で20KMも無い距離を行くのですが、いろいろありますよ・・・
斜里岳を右に見ながら直線道路を釧路方面に進行します。
途中左折すると摩周湖へ行けます。(神の子池があり、水のきれいさから一時摩周湖の伏流水ではと言われましたが違っていたようです・残念)
摩周湖は7日目に訪問してばっちり湖面も見えましたので今日はパスになります。

野上峠を越え、川湯温泉駅の手前で右折、アトサヌプリ(硫黄山)へ向かいます。
今日は摩周湖へ行きませんが、摩周湖は古摩周岳(そんなの聞いてないけど、たぶんそう)の噴火によるカルデラ湖です。
このカルデラの外縁部で噴火したのが現摩周岳で、水は溜まっていませんが小さなカルデラを持っています。 全体を摩周カルデラとも呼んでいます。
その摩周カルデラは、日本一の大きさを持つ屈斜路カルデラのすぐ横にあり、形成された時期からも、屈斜路カルデラの外縁部に出来た子分のようなものではないでしょうか。
ちなみに、阿蘇カルデラは日本一の大きさとか世界一とか言う人がいますが(特に地元)、どちらも間違いらしい。
世界一はインドネシアにあり、日本一は屈斜路カルデラなんですよ。

大した大きさの違いでは無いし、どちらがどうでもいい比較です。
地質学的研究は⇒こちらから

先ほど通過してきた野上峠からすでに屈斜路カルデラの中に入っています。
ISS(国際宇宙ステーション)より
写真は現在の屈斜路湖と屈斜路カルデラです。 屈斜路湖はすぐわかります。 摩周湖もわかりますよね。
屈斜路湖の左側外周部をそのまま円形に延長したものが、昔の屈斜路湖の姿と言われます。
右端の水面は摩周湖です、屈斜路湖と摩周湖のほぼ中央に白く見える硫黄山も全て屈斜路湖の中だったのでしょうか。

この硫黄山ですが名前のとおり硫黄の産出場所で、安田財閥により一時は全道一の採掘量を誇ったようですが、乱掘により10年持たなかったようです。
ただ硫黄採掘や安田鉄道(アトサヌプリ-標茶間)の線路敷設(現在の釧網本線の一部)には釧路集治監(設置場所は標茶、のちの網走集治監)の囚人が
酷使され多くの犠牲者を出したと伝えられています。 やっぱりね。


箱根の大涌谷みたいなものですが、噴気孔に触れるまで近寄れるのがすごいです。
手を触れるとヤケドします・・・まぁ何事もほどほどがいいんですよね。 え・なに?なになに???

バスは砂湯に立ち寄ります。 全国にある砂湯と同じです、掘れば温泉が出ます。
ここでアイヌ装束を着て全員の記念写真を撮ったのですが、現在行方不明。 ごめんね。

さらに移動し和琴半島へ。

先ほど砂湯へ寄りましたが、屈斜路カルデラ内部では今でも結髪な火山活動が続いているのか温泉の出ている場所がいろいろとあります。
和琴半島では半島一周ハイキングをしました。 自然探勝路は概ね一周小1時間程だったでしょうか。(上の地図にもそう書いてありますね)
半島付け根から時計回りに回ります。 (回る方向に特に意味はありません・右利きなので右手を内側にしたい??)
半周ほどしたところに活発な火山活動を続ける「オヤコツ地獄」があります。
ここでは噴気が上がってますが実はこの半島全体が火山みたいなものなのです。
夏なので感じませんが暖ったかいのです。
北海道にほぼいないと言われる、ミンミンゼミやコオロギやバッタの類も生息しています。 私たちも聞きましたよ。
冬になると全面結氷すると言われる屈斜路湖ですが、実はこの和琴半島部だけは凍りません。
そのため白鳥などの鳥も多く集まります。 不思議な場所です。
不思議と言えばイギリス・ネス湖に対応したかのような「クッシー」なる謎の怪獣もいるとかいないとか? あの話は?不思議??

続いて屈斜路カルデラを一望とする美幌峠へと向かいます。
標高525mの頂上からは、屈斜路湖・硫黄山・斜里岳・知床連山がの見える壮大な風景がつながりますパノラマが広がります。
わたしとしては美空ひばりの「美幌峠」の歌碑より「バスに峠の夢のせて」の歌碑を作ってほしい・・・
「安田由美子さん」思い出させてください。

いやいやそれより、このブログを書いていてもっと驚いたこと。
美空ひばりさんて、私たちから見るとすごい年上のおばさま。 ですよね。 そう感じていました。
1937年(昭和12年)5月29日生まれですから・・・ 私が子供のころから活躍されていたと感じていましたが。
「美幌峠」の歌が歌われたのが1986年(昭和61年)9月とか、私たちが行った時より14年も後の事。
いやいや、いやいや、何たること。 年を取るはずだわ~。

美幌峠を下りたバスは、美幌・女満別市街を抜け、網走五湖の一つ網走湖を左に見ながら網走刑務所へ。
今思うに、なんでこんな場所が観光地ななるのでしょうね?
府中刑務所・名古屋刑務所・大阪刑務所、わざわざ見に行きますか? へんな映画(東映の任侠もの)の見過ぎです。

刑務所近くの駐車場を出るとすぐに天都山へ向かいます。
山へ上がる途中に友愛荘YHがあります。
天都山はオホーツク海を一望し遠くに知床連山まで見える眺望の良い山です。
バスに長い時間乗って来ましたので、美しい景色と空気に心も気持ちもリフレッシュ。
天都山展望台より網走湖と能取湖を望む 

網走市内ではモヨロ貝塚に寄ります。 確かバスに乗っていたどなたか一人がモヨロ貝塚に強い興味を示していたように思います。
オホーツク海にそそぐ網走川の河口に位置する遺跡。モヨロ貝塚。
今から約1300年前、北の大陸からやってきた人びとは、この網走の地にムラをかまえました。
たくみな航海術と海獣狩猟・漁場の技術をもつた彼らの暮らしはオホーツクの豊かな海の恵みに支えられ、それまで北海道では見られなかった「オホーツク文化」とよばれる独自の文化を発展させていきました。
 網走市立郷土博物館より引用
「オホーツク文化」?
北海道内で続縄文文化が定着していた3世紀ごろから、オホーツク海沿岸ではまったく別の文化が発展した。
少数民族のニヴフ(ギリヤークとも呼ぶ)によって樺太南部ではじまったとされ、広くアムール川領域、サハリン、千島列島、カムチャッカ半島など環オホーツク海文化圏が形成されていたらしい。
オホーツク文化人は「日本書紀」に現れる粛慎と考える見方もあり、その頃には明確な生活圏を持っていたようだ。
特徴は、北方民族の生活スタイルを継承しており、海獣狩猟や漁労を中心とする生活を送っていたようだ。
ところが北海道の擦文文化が終わる3世紀から13世紀頃まで続いたものの、オホーツク文化はその頃突然消えてしまった。
そんな「オホーツク文化」を残す遺跡がモヨロ貝塚である。

オホーツク文化は後期になると北海道の擦文文化の影響を受けるようになり、両者の文化が融合した「トビニタイ文化」が生まれたてきた。
「トビニタイ文化」は9世紀から13世紀まで道東を中心に発展したが、最終的にアイヌ文化に吸収されていったらしい。

ところで、アムール川領域、サハリンにはニヴフ/ギリヤーク人(ギリヤークはロシアでの呼び方)と呼ばれる民族がいて「オホーツク文化」と密に関連していたらしい。
間宮林蔵が樺太探検した時、案内したのがニヴフであったとか、一部のニヴフは戦後日本国籍を取得し北海道に住み着いたという話もある。
ますます、日本は多民族で形成された国家であることがわかります。
ギリヤーク人の踊り、 絵葉書より  衣装は近世代風ですね

ところで「クマ祭り」知ってますよね。 日本ではアイヌの伝統文化ともいわれ「イ・オ(ヨ)マンテ」の歌でも良く知られていると思います。(私たちの世代なら)
ところがこの「クマ祭り」は、北方ユーラシア大陸を中心に、北アメリカ、ベトナム山地、バスク地方など、熊の生息する地域のほとんどの民族にみられるそうです。
そしてこの祭りは世界各地のものに類似性が見られることから、クマの生息地(おおむね北半球)を通して昔から交流があったのかもしれない。
ニヴフ/ギリヤーク人の顔付きはモンゴリアンそのものに見えますし、カムチャッカ半島を通して近隣であるアラスカエスキモーもアジア人的顔付きですね。
 右が男性の、中央が女性のニヴフ。左はアイヌの男性(1862年)Wikiより
まあ人類学的考察も私は素人なので避けますが、顔付きや蒙古斑の有無などモンゴロイド系の特徴を見るに、友達じゃん・なんて感じます。
それは置いといて「クマ祭り」は、アイヌ独自の野蛮的行事ではなく、世界に広がりを持つ狩猟民族特有の神事だったようです。
日本人のマタギも、狩猟後生き物の命をいただく事を神に感謝し、祭壇に捧げる行為を行います。

「クマ祭り」の起源の学術的論文はこちらから。
イオマンテの特徴に関する研究はこちらから。
イヨマンテ・熊の霊送り(儀礼編)の説明はこちらから。

長くなりました、アイヌ民族の多様性と日本人の多民族性に興味を持ってくれればうれしいです。
こちらの「日本列島3人類集団の遺伝的近縁性」日本列島人(アイヌ人、琉球人、本土人)の話も面白いです。

その後、網走五湖中一番小さい藻琴(モコト)湖を右に見ながら網走五湖の一つ濤沸(トーフツ)湖へ。
濤沸湖はサロマ湖と同じように内陸側に閉じ込められた湖で、オホーツク海側とは砂嘴で仕切られています。
この砂嘴の上に自然の花園が広がり、私たちを楽しませんてくれます。
その花園の名前は、皆さん良くご存じの「原生花園」です。
まぁ誰も手入れをしていないので「原生」でいいのかもしれませんが・・・何となく「原生花園」っていい響きですよね。
列車で行くなら国鉄釧網本線の原生花園駅なのですが、この駅はちゃんとした駅ではなく臨時乗降場という位置付けでした。
簡単なホームがあるだけの臨時乗降場でしたが、札幌から網走を回って斜里・釧路へ行く急行ですら花の季節には停車していました。
急行列車が停車すると多い時は100人近くが下車したのではないでしょうか。(ディスカバージャパンキャンペーン凄い)
 原生花園と斜里岳遠望、真ん中を釧網本線が横切っています。
 トーフツ湖、のんびりしています。 ここに冬は白鳥が多数やってきます。

原生花園を出るとすぐに今夜の宿「中山記念小清水ユースホステル」です。
「中山記念」とは・・ 日本におけるユースホステル運動生みの親「中山正男」氏を偲んで、です。
北回り3日目に「サロマYH」の事を書きましたが、その中に本町出身「中山正男」氏と記述があるように、道東出身で強烈な個性と政治力で日本にユースホステルを根付かせました。
氏のたぐい稀な功績をたたえ、名を冠した「中山記念小清水ユースホステル」なのです。
 1970年(昭和45年)7月開所
小清水YHはトーフツ湖にやってくる白鳥が飛び立つ姿をイメージしてデザインされたと聞いています。
 現在は「小清水はなことりの宿ユースホステル」名前が変わっています。
今日の宿泊スタンプ・・ペタ! 

小清水YHもう一つのスタンプ 
このスタンプの牛さん、北海道の形をした自身の模様の小清水YHの場所をしっぽで指しているんです。 なかなか賢い奴だ!!

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