御座(ござ)・浜島・合歓の郷

波切の町を過ぎ深谷水道を過ぎたあたりからの地区を「奥志摩」などとも呼んでいました。
ここで言う深谷水道とは1935年(昭和7年)に英虞湾奥と外海(熊野灘:太平洋)の海水流通を計画し開削されたものです。
当初は自然破壊されると反対運動もかなりあったようですが、北海道サロマ湖の湖口開削の様な大きな影響はなかったようです。
三重県科学技術振興センター 水産研究部が2007年に発行した「英虞湾 新しい里うみへ」のP38に深谷水道の影響は英虞湾全体へ及んでいないようです。
それより、この水道によって奥志摩は陸続きでなく、本当の「島」になってしまったのです。

志摩半島先端に御座の町があります。
仕事で波切・和具と行った後、浜島・南張方面に用事がある時は、御座からフェリーを使いました。
ぐるっと鵜方回りだと当時の道路事情だと1時間半くらいかかっていたと思います。 それが運転しないで15分程ですから。 使わない手はありません。
写真はありませんが、前後の無い車両を載せる甲板だけのフェリーだったと思います。(客室設備など無いイカダの様な船)
フェリーはずいぶん前に無くなり、人を運ぶ渡船も今秋(2021年秋)には無くなるようです。
結構便利だっただけに残念。

御座には御座白浜という白砂の海水浴場があります。
ほぼ太平洋に面した位置ながら外海に面した場所に小高い黒森と呼ばれる山があって、直接外洋の波が当たらないため波静かで水もきれいな海水浴場として有名でした。(写真の向こう側の小高い山が黒森(山))
ただ駅から遠かった。 最寄りの近鉄「鵜方駅」から1時間以上かかったと思います。
車で行くにも志摩半島の先っちょですから遠いです。
知り合いが、真夏に松阪からフルオープンのジムニーで向かったところ、海水浴場に着く前に完全に日焼けし、太ももに水膨れが出来てしまったとか言ってました。
別に御座が悪いわけではなく、真夏のカンカン照りのしたオープンカーで走る方が・・・ですよね。

もう一つ、御座には珍しいものがありました。
海につかる石仏様「御座浦石仏地蔵尊」があります。
 この石仏地蔵尊は昔からこの浦に鎮座して、衆生との仏縁を結んでおられました。あるとき、弥吉老人の昼寝をしている夢枕に立ち、
 「我は御座浦の地蔵菩薩なり、古くより因縁を感じてこの処に姿を現す。 至心に祈願せんものには誓って腰より下の疾病を治すべし。
 我海水の浸すところに在りて諸人の為に常に代りて苦忠を洗浄せん、必らず高処に移す事なかれ。」
と、志摩町の看板に謂れが書かれています。

鳥羽付近から志摩半島にかけ、昔から海女の里と呼ばれるほど海女さんが多く、旦那とともに生計を立てていたそうです。
海女の里の中でも特に、鳥羽地区の石鏡・国崎・相差、志摩地区の和具・御座などは完全に女性上位の地域でした。
海女の里の「潮仏」は昔から女性の腰から下の守り神とされてきた意味も何となく分かります。
毎年3月15日には潮仏の例祭が行われます。 多くの海女さんが参加されると聞いています。
翌16日から御座地区の海女漁が解禁と聞きましたが今でもそうなのでしょうか。
結構地区ごとに解禁日はまちまちなようでしたし、日によっても変わるようで町内放送で「今日はいいよ~」と言っていたように思います。

御座からフェリーで結ばれていた浜島には「残酷焼」で一世を風靡した「宝来荘」がありました。(平成30年5月閉館)
当時のキャッチは
「獲れたて自慢の海の幸、伊勢海老やサザエをお客様の目の前で焼く「残酷焼」は名物料理。雄大な景色と一体化した露天風呂でゆっくりお寛ぎ下さい。」

私も物珍しさから「残酷焼」を食べた事ありますが、炭火の上に乗せられたアワビがくねくねと嫌がる姿は食欲をそぐものでした。
アワビとともに伊勢エビも生きたまま焼かれていたようですが(お金の関係で食べ・ていません、れませんでした)目の前の網の上で跳ね回る姿を見ていて
どうやると食欲につながるのでしょう?
残酷焼きの様なものが全国にあるようですが、サクッと調理してあげてほしいものです。

鵜方と浜島の間にはヤマハリゾート合歓の郷(ねむのさと)がありました。
私が三重に赴任する前1967年に開業し、1969年からはポプコン(ヤマハポピュラーソングコンテスト:当初は作曲コンクールと呼ばれていたらしい)が開催されました。
当時から入口に有人ゲートが置かれ、重々しくかつゴージャスな感じで、びんぼーサラリーマンだった私に「近寄るんじゃない」オーラを発していました。
その後、仕事関連で行く事が増えましたが、いつ行ってもビラ(コテージ)を囲む広い芝生、その向こうに志摩の海が広がる景観にあこがれたものです。

1971年のポプコン(作曲コンクール)で北海道のホスバスの中で私たちも良く歌った「サルビアの花」が入賞しています。

そしてその時の歌唱者は「オフコース」だったとヤマハの公式記録に残っています。
あの「オフコース」だったのでしょうか?
なかなか道の開けなかった「オフコース」ですが、なんで「サルビアの花」を自分の曲にしなかったのでしょうね?
オフコースのシングルにもアルバムにも「サルビアの花」の曲名はありません。
その後、「もとまろ」などが歌ってヒットし、多くの歌手がカバーしていることはご存じの通りです。

1972年には当時中1と小5の姉妹「チューインガム」がグランプリを取っています。
そしてこの年、日時が前後しますが、姉の「松田りか」が作詞作曲した【風と落葉と旅びと】を発表しています。
繰り返しますが中1と小5の姉妹が作って歌ったものですが、歌いやすく覚えやすいというフォークソングのど真ん中をついています。
奇をてらったメロディやコード進行も無く、二人のさわやかな声によるハーモニーに強く惹かれました。
素敵な歌はこちら「北大ポプラ並木」のページの一番下にあります。

そして1973年10月合歓の郷で行われた最後の「ポピュラーソングコンテスト’73グランプリ大会」で名古屋の女子高生「小坂明子」さんが「あなた」で見事グランプリ取りましたね。


従来のレコード会社やプロダクションなど、しがらみのあるコンテストでなく誰でも上手ければチャンピオンになれる新しい形のコンテストでした。
そして小坂明子さんの活躍によりポプコンの方向もアマチュア主体に変わって行った転換点になったのですね。

その後ヤマハは本社近くの掛川市に「つま恋」を作り、ポプコンもそちらに移って行きました。
そしてバブル崩壊とともに少しずつ落ち込んでいって、結局合歓の里も海外ホテルチェーンに取られてしまいました。
なんか、ヤマハって先取りは素早いんだけど、その後が上手くいかない感じを受けます。
その部門のトップをとるという気持ちは十分に感ずることが出来ますけど・・・
ヤマハは通信機器でも素晴らしい製品を出しています。 いろいろなICも自社開発していました。
そう言えば、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの「ドローン」(無人航空機)もヤマハの技術は世界一でした。
軍事転用されないよう国は輸出規制をしていましたが、やっぱり中国のインチキ商人によって持っていかれてしまいました。
今や中国はドローン王国と言われていますが、元はヤマハの技術なんですがねぇ・・・
でもなんか、次の会社(二番手)なんですよね。 技術力は一番手なんですがねぇ。

そう言えば合歓の郷にはマリーナがあって、関東のお金持ちがモーターヨットと呼ばれる大型船で海から直接来ることもありましたね。
私も伊勢湾から合歓の郷へのヨット(普通の帆の付いた風で走るヨット)へ行くけど手伝ってくれないと、時々誘われたことがあります。
でも安乗岬から大王岬へ出る時、南風が強いといったん大きく外海(熊野灘)に出て、志摩半島を回りこまないと危険なのです。
それと外海はやっぱりうねりが強く船に弱い私には無理・・・
君子危うきに近寄らず、じゃないですが身の丈を超えた行動はしませんでした。(君子なんかではなく、ただの臆病者なんですが・・)

船に弱いと言えば、クルージングヨットだとキャビンにトイレがあります。
コレがくせ者で、洋式ですが陸上で言えば子供便座サイズ。 命中させるために膝立ちで便座を見つめると・・ウェ!となります。
座ったにしても閉じ込められた空間で揺られるとウェ!・・です。
そして・現代。 高速バスのトイレも着座で使いますが狭く閉じ込められた空間なので、加減速・ハンドル操作によりウェ!です。
汚い話でごめんなさい・・

コメント