南回り14回 第4日目 8月10日(木)


白老YHでの見送りを受け、出発です・と言ってもYHのすぐ裏にあるポロト湖畔にある「白老コタン」を訪ねるのです。

ただ残念なことにその頃の施設は歴史的事実を見直す場でなく、アイヌ人やアイヌ文化を見世物にした観光施設であった事です。
リーダーである私もその頃は知恵も知識も無く、一観光施設に行くような気持であった事は反省しなくてはいけませんし、皆さんに正しい事実を伝えることが出来なかったことをお詫びしなくてはいけないでしょう。
他の日のコラムにも書いてありますが、私見ですが、日本人のルーツは沖縄にまでアイヌの痕跡が残っていることから考えて縄文人=アイヌ人だったのではなかったかと言う事です。
アイヌ民族はおとなしく争いを知らない性格でしたので、九州から進出した弥生人=朝鮮・中国人が好戦的で殺戮をいとわない民族であったため、たちまち淘汰されていったのでしょう。
アイヌ人と沖縄人(琉球人)とのDNA調査では遺伝的近縁性が確かめられており、この説は裏付けられています。
だからといって日本はアイヌ人の物だとか琉球人の物だとは言いません。 長い歴史の中で民族的交流が進み現在の本土人と呼ばれる民族が作られていったわけなのですから。
ただ日本は単一民族国家と平気で言う、あほう大臣がいることは悲しい事実でもあります。 なんでそんなのが大臣なのかも不思議。
アメリカの花札大統領もまた白人主義を声高に言い続ける事は情けないですね。 自分たちこそ移民として交雑してきた代表なのにです。
松前藩の時代から迫害され続けたアイヌを思い、分け隔てなくともに同胞として生きていくことが私たちに課せられた使命と思います。

【引用:菅原幸助『現代のアイヌ』, 現文社】
白老町では若いアイヌ青年たちが中心になって、観光コタンをなくする運動をやってきたが、観光コタンはさびれるどとろか、逆に、北海道観光ブームと共に繁昌するばかりだ。
観光コタン反対運動を進めてきた青年たちにとって、頭の痛い問題である。
町のお祭りや記念行事があると「白老の町はアイヌで知られているから、アイヌのイヨマンテ (クマ祭り) をやって人を集めよう」ということになる。 青年たちはそのたびに「日本の神社のお祭りや町の記念行事にアイヌを引き合いにだすことはあるまい」と反対してきたが、アイヌのクマ祭りがシャモたちの手で行われてしまうのである。
いま繁昌している観光コタンにしても、青年たちはいろいろな方法で抵抗をこころみてきた。
駅や街頭に「観光アイヌコタンはこの先五百メートル」などという立看板が立つと、青年たちは夜中にこっそりと、この看板を海に投げ捨てた。この看板は捨てては新しく立ち、立てては捨てるというイタチごっこがくり返されている。
青年たちを指導してきた白老町漁業協同組合常務理事野村義一さんは、くやしそうに私にいった。
「アイヌの人たちは観光コタンをきらってよりつかない。そのコタンはさびれてゆくが、すぐ新しい観光コタンができるのです。観光事業家がやってきて、貧しいアイヌを他町村から集めてきでは新しい観光コタンがつくられるのです」
先年、北海道庁が白老町の観光をふくめた町づくり診断をやったことがある。その報告には、
本州の観光客はアイヌの姿に接することで北海道の印象を深める。
それにはいまの観光コタンは近代的で、自然のアイヌの姿を表現していない。 現在の観光コタンを、町から一キロほど離れたポロト沼に移住させ、むかしのアイヌの生活様式をやらせるべきだ。
興味をますためにはショーであってもよい。 そうすることで収入がふえれば、アイヌの生活は向上し、観光白老町の発展になるではないか。
と結論している。
これにはコタンの青年たちもカンカンになって怒った。
「北海道の役人までが、観光業者のお先棒をかついで、アイヌをむかしの姿に引きもどそうとしているのか!」。
青年たちは観光コタンのポロト沼移転に反対運動をはじめた。
しかし、この観光診断の報告にもとづいてさっそく、ポロト沼観光開発会社という会社がつくられた。 そして着々と新しい見せ物アイヌのコタン建設が進んだ。
即ち,1963年にポロト沼公園造成工事着手,そして 1965年にアイヌコタンのポロト湖(沼) 移転が成る。

そして私たちが観光として訪問した・・・

このように形成された「観光アイヌ村」に私たちは行きました。
これ以上の事は皆さんがご自分で調べてください

新しく作られた「ウポポイ(民族共生象徴空間)及び国立アイヌ民族博物館」がアイヌ民族の偏見をなくし分け隔てなく共生できる社会を作ってくれるよう願ってやみません。
ウポポイのHPはこちらだよ ➡  マークを押してください。 ウポポイへ飛びます。
博物館刊行物「アヌアヌ」(ニュースレター)はこちらから。
でもなぁ・ウポポイHPのトップページからして「ムックリ」かよ、と思います。 やっぱり観光施設なんだな。

苫小牧までは右に太平洋と馬牧場、左に支笏湖畔にそびえる樽前山のプリン状の溶岩ドームを見ながらの行程です。
この道路の横には日本一の直線部分を持つ室蘭本線があり、道内で産出された石炭を運ぶための運炭列車が長い貨車を引いて走っていました。

いつもですが車両の両数を数えてみるのですが途中でわからなくなってしまう・どうしてかなぁ?

苫小牧から支笏湖へは、苫小牧に大規模な製紙場を作った王子製紙の資材運搬や発電所建設材料搬入ために使われた山線と呼ばれる鉄道跡を上っていきます。
この線は王子軽便鉄道とも呼ばれます。

上の写真は米国ポーター社製の機関車がおなじみの支笏湖湖畔橋(山線鉄橋)を渡るところです。
写真の向こうにそびえる山は恵庭岳ですね。 この山線鉄橋についての詳細はこちらを参考にしてください。
この線が山線と呼ばれるわけは、製紙原料として大量の木材を必要としていた王子製紙が苫小牧を中心として原生林に向け鉄道線路を引いていったのですが、この時支笏湖側に引いていった線が山に上っていくのでそう呼ばれたようです。
日高山脈にも目を向けていたわけで現在の日高本線の下敷きとなる形で線路を引いていきました。
こちらの線が日高の海岸沿いを走るので海線と呼ばれていました。
凄いですね、明治政府下の北海道開拓使でも出来ないことを一企業がやってしまうのですから。
今日はこの山線を上がって支笏湖へ行き、海線を走って日高に行くのですから、まさに王子街道ツアーと呼んでも良いくらい。

支笏湖は本当にきれいな湖です。 
正面の山は恵庭岳です、ここからは見えませんがこの稜線には冬季オリンピックの滑降競技が行われた施設が作られました。
札幌市内から外れたなぜこの地が?ですが滑降競技は大きな高度差と距離が必要で、札幌近郊では取れないということで恵庭岳に作ることになりました。
スキー場とロープウェイを含む連帯施設が、この一回のオリンピックのしかも2日(準備期間を入れれば2か月ほど)の為だけに作られるという驚くべき計画だったのです。
    
そして滑降競技はすごいのです、最大斜度35度を超す斜面を100km以上のスピードで落ちていくのです。
   下に見えるのが支笏湖です。
35度って斜面じゃなくってガケです、上に立つと転げ落ちそうで怖い。
大倉山や白馬のジャンプ台の最大傾斜は37度、最大速度は90㎞だとか。
まぁ、かの選手たちは別世界ですね。
競技中、死亡したりする選手もいるらしいですが、この大会では一人のケガ人も出なかったそうです。 良かったですね。
男子はルッシ選手が、女子はナディヒ選手が優勝しました。
ナディヒ選手は小柄で丸々とした体つきで愛嬌のある可愛いらしい選手だったのをおぼえています。

札幌オリンピックではスケートのジャネット・リン選手も可愛かったですね。
転んで銅メダルでしたが、真駒内にあった選手村宿舎に残された”Pease and Love, Janet Lynn”の落書きとともに思い出に残っています。

ついでにもう一つ、恵庭岳の麓というか湖畔に「丸駒温泉」があります。
いまや支笏湖を代表する温泉宿と言われ、開湯100年を超えた老舗の温泉です。
それこそ冬季オリンピックが開かれるまでは、直接宿につながる道もなく湖畔(地名)から観光船でしか行けなかった場所にありました。
そのせいですかね「日本秘湯を守る会」の会員でもあるそうです。
そして「丸駒温泉」は北海道にユースホステルが始まった時一番最初に指定されたユースホステルの一つです。
まだ支笏湖YHも無かった時です。
私の淡い思い出も支笏湖の深い深い水底に沈んでいます。(何?それ・・・)
丸駒温泉」の事はこのブログ全体の中のどこかに埋もれ隠れています。

バスの休憩地は上にも書いた支笏湖YHです。
私たちは休憩だけでしたが、支笏湖YHではジンギスカンが食べられるということで大人気でした。
それでもYH協会直営ということもあってか結構規律は守られ、三大XXユースのようにならなかったのは良かったです。
三大なんとかと言えば、上の写真「恵庭岳」の左側稜線の奥にオコタンペ湖がありました。 北海道三秘湖の一つと言われています。

支笏湖の水深は日本で二番目に深く360mに達します。
貯水量も多く面積で言えば琵琶湖の12%程度なのに琵琶湖の4分の3もの水量があるそうです。
王子製紙が自家用水力発電所の資源として目を付けるはずです、目の付け所が素晴らしい、とエラそうに言ってみたりして。

バスは支笏湖を出て湖畔から千歳方面へ向かいます。
途中王子軽便鉄道によって苫小牧港から運び込まれた資材を使って作られた発電所群(第一~第五)あります。
この発電所群は当初から60Hzの発電機が使用されていました。 
この電気をお裾分けしたいただいていた支笏湖周辺地域ではずっと60Hzの電気機器が使われていたそうです。
私たちが行った頃でも60Hzが使われていて、なんで?と思ったものです。
今でもそうなのでしょうか?

発電所群を抜けたあたりに「サケマス孵化場」があります。
よく私たちもサケの稚魚の放流をTVで見たりしますね、しかしここまでの道のりは長く明治21年から伊藤一隆と藤村信吉の信念と情熱で、建設した「千歳中央孵化場」から始まったのです。
その後、80年という長い苦難と紆余曲折、さまざまな失敗や試行錯誤を経て、昭和45年頃ついに成功に転じました。
つまり私たちが訪問した少し前に軌道に乗った事業だったのです。
先人の偉業に感謝しませう。 感謝して鮭を食べませう。  当時の鮭捕獲機

道央圏にある石狩低地帯の一角で、苫小牧から太平洋に至る一帯の勇払原野と呼ばれる場所を通りながら日高路へ入っていきます。
この勇払原野にはウトナイ湖がありバードサンクチュアリ及びラムサール条約に登録されている場所です。
ここにはウトナイ湖ユースホステルが苫小牧市によって建てられていました。
ウトナイ湖の湖畔すぐにあり食堂の大きな窓から湖と多くの野鳥が見え、野鳥の好きな方にはたまらないYHでしたが建物老巧化もあり2005年(平成17年)に惜しまれながら閉館されました。
 1961年(昭和36年)1月開所
ウトナイ湖ユースホステルは苫小牧市営だったこともあり「苫小牧ユース」とも呼ばれていました。
でも苫小牧駅からは遠く、バスで30分ほどかかったように思います。

苫小牧から日高方面に向けて王子製紙が作った王子製紙軽便鉄道が走っていました。
いわゆる胆振地方になりますが、大量の自然林が製紙工業にぴったりだったのでしょう。
運ぶために鉄道を作り、電気を供給するために発電所まで作ってしまう、巨大企業恐るべし。
上にも書きましたが支笏湖方面の材木を運び出すために作られたのが「山線」、日高方面の材木を運び出すための鉄道は「海線」と呼ばれていました。
正しくは苫小牧軽便鉄道と日高拓殖鉄道なんですが、どちらも王子製紙の出資で作られたので王子製紙軽便鉄道でいいと思います。
海線の写真を6枚パチリ。
  
  
  

さて、日高路に入ると海沿いの町になります。
私たちの行った夏は昆布干しに漁師の皆さんは忙しそうにしています。 「右手に見えますのは・・・」太平洋と昆布が干された海岸、「左手にみえるのは」馬牧場です。

もう日高の馬街道に入っています、今のようにおしゃれな看板はありませんがそれでも馬の絵が描かれた看板がいっぱいになってきました。
馬がいっぱいいます、道を歩いている馬もいます・・・もちろん道にいる馬は人が乗っています。
それにしても馬がいっぱいです。 道路には馬さんのアレもあちこちに落ちています。
旅ですねぇ、都会での日常の生活では見ることのできない別世界です。

新冠の町に入る手前で道は大きな岩山に行く手を遮られ左に大きく迂回します。 この岩山が判官舘(はんがんだて)と呼ばれています。

上の写真は襟裳側から苫小牧側を写していますので逆方向になりますが岩の大きさがわかると思います。
鉄道はちょいとそこらで坂を上がれませんのでトンネルを掘っていますが、車は身軽なので道路は海と反対側を大きく巻き込むようにつけられています。

源九郎判官義経が自らの名にちなんで「判官館」と名付けた・・・という義経伝説がここでも出てきます。
またシベチャリの英雄シャクシャインが謀殺された悲哀の物語りを残しているということもあり、新冠ユースホステルのペアレントさんが判官舘の謂れも詳細に話してくれました。

新冠ユースホステル⇒新冠判官舘ユースホステル⇒ファンホース新冠ユースホステルと名前が変わりましたが2012年に閉館しました。

 1971年(昭和46年)9月開所

今日の宿泊スタンプ・・ペタ! 

ミーティングで歌ったかなぁ? 1972年7月1日発売

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