南回り14回 第2日目 8月8日(火)


まず、札幌ハウスYH前に全員そろって記念写真です。 (修学旅行の記念写真みたいですが、今は私の大切な大切な宝物です)

※50年近く前の写真ですが、昨今の個人情報なんちゃらで解像度をかなり落としています。
私の顔はこんなんじゃな~い、とのクレームはしないでくださいね その代わり大きい写真のほしい方はご連絡ください(要、当時のお名前と住所)

ホステラーのみんなには、とりあえずグループごとの座席表に沿って座ってもらいます。
この頃のバスには床下収納などありませんから最後列が荷物置き場でした。
班長さんの指示のもとみんなでリュックなどしまってもらっています。
私はといえば、今日からお世話になるバスの運転手さんとガイドさんに挨拶をし、三種の神器と呼ばれるYH旗などを収納してから札幌ハウスYHや
北海道YH協会の方の見送りを受け・・・さぁ出発で~す
まずは小樽に向け国道5号線へ。

早速バスの歌、私たちのバスのテーマソングを決めます。 朝の発車時には「?」、YH到着時には「?」、ごめんね、忘れてしまいました。
ただ単に私が好きだったという理由で「モーラップの恋」(みどりの森に、つづく道・・・)がどちらかのテーマです。
えぇっと「モーラップの恋」を探したのですが、どこにも無い、ってことで別の曲

「村下孝蔵」さんの歌、好きです。 私たち世代とほぼ同世代の「タメ}です、曲は私たちが旅行した後に発表されていますが好きなので上げます。
良く浜名湖YHのフォークコンサートに行っていたせいか「初恋」が発表される前から、なんか北九州にすげーギターのうまい歌手がいるとは
聞いていました。
でも「大塚博堂」さんと同じく若くして逝去してしまい(1999年:46歳)なんかあっという間、風のように通り過ぎて行った方でした。


さてバスは小樽を通過します。 この頃の小樽は、ひたすら斜陽の坂を転げ落ちる悲しい町でした。
また私的な事ですが私が初めて銀行口座を持ったのは、富士銀行小樽支店です。(下の写真の建物)
東京丸の内にあるような超重厚な建物でしたが、いつの間にかレストランになっています。 


上の写真は2020年2月の写真

ニッカウヰスキー余市蒸溜所にやってきました。 美しいですね。

私たちが工場見学したころはまだ独立した「ニッカウヰスキー株式会社」でしたが、今はアサヒビール株式会社の製造部門となっています。
・・・みんなにウイスキーの試飲はしないようにと言ったのにぃ、おらぁ酒臭いぞ!

バスは国道229号線に入り積丹半島に向かいます。
この国道229号は今は積丹半島を一周しますが、私たちの行った頃はまだ全通していませんでした。
国道229号は日本一トンネルの多い国道として知られ、その数は76本あります。
トンネルにまつわる事故も多く、その中でも1996年2月にあった豊浜トンネルが崩落し、路線バス1台と乗用車2台が巻き込まれて20名が死亡する
事故があったことはショックでした。
使わざるを得ないトンネルで偶発的とはいえこんな事故が起きるのはたまりません。
 でも私たちはこのトンネルを往復で使ったんですよ。 行きも帰りも・・

おなかがすいてきました、積丹YHで昼食です。 たぶんそうだった?

その後みんなで神威岬に向かいます。 バスを岬入り口近くまで回してくれました。
この頃は尾根道が整備されていなく、眺望も良くありませんでした。
今日はお天気も良く、波もなかったので海沿いの道で突撃です。  下の地図でE・F・G・Hコースになります。
北海道YH協会発行「北海道の手引」より
うしお食堂?の横から海岸線をたどります 海岸線をしばらく辿ると大きな岩で行く手を遮られます。
海岸線にはほんのわずかな岩場しかなく、波のない干潮時でも足を洗われるようなところです。
この海岸前が途切れたところに手堀りのトンネルがありました。 念仏トンネルです。
 【念仏トンネルの碑 】

この様な思いを持って作られたトンネルですが内部に照明はまったくありません。
しかも内部はZ字状のかぎ型になっていて、手掘りの表面の凸凹によって光が乱反射するためか中間部は真昼でも光が届かない状況で真っ暗です。
路面も手掘りのままの岩ゴロゴロですから、男子も女子も手さぐりでギャオギャオ・キャーキャー言いながらの通過でした。 (もちろん帰り道も・・)
さらに海沿いの道を進み、行き当たりの急坂を上ると岬先端のすぐ前です、一気に展望が開けます。



写真に写る神威岬燈台はおおよそ79mの海岸崖上にあるため非常に風が強いです。
いま念仏トンネルは通行止めになっているため、岬まで痩せた尾根上を歩くのですが、強風の時は通行止めになるほどです。
過去に最大風速63.3mを記録しています。 
最大風速は10分間の平均風速の最大値です、最大瞬間風速は0.25秒間隔の3秒間の平均値の最大値です。
その時の最大瞬間風速は記録されていませんが室戸岬で最大風速66.7mの時、最大瞬間風速77.1mですから想像して下さい。 
ちなみに気象用語では20m以上は非常に強い風、30m以上はすべて猛烈な風と呼ばれ、20m以上では立っていられないほどらしい。
 燈台と燈台守の宿舎
 古い絵葉書
案内板によると
 神威岬は風光明媚な景色を堪能させてくれる一面、古くは西蝦夷三険岬のひとつとして、また航海の
 難所として知られています。
 灯台ができた明治21年(1888)には職員3名が勤務し、灯台に辿り着くには余別の集落から
 片道4kmもの険しい山道を登ったり降りたりしていました。
 特に、岬に近づくと崖が続き、一歩踏みはずせば海に落ちてしまう怖いところが何ヶ所もあり、
 子どもや女性にとっては困難を極め、灯台の職員家族や灯台を訪れる人々は海岸の大きな石を
 飛び跳ねながら伝って歩くのが普通でした。
 生活は、天水を溜め生活水として利用し、電気のない時代ですのでランプを灯し、食糧は
 自給自足が欠かせなかったようですが
 米・味噌・醤油・塩といった日用品は木船の傭船で買い出ししていました。

以前、離島の燈台守が傭船(テンダー;小型船)に乗って任務に向かう姿を捉えた映画を見たことがありますが、小さな船で木の葉のように
揺れ動く船から島へ飛び移る様子にドキドキしたものです。
離島では船しか足がないのでお願いできるのかも知れませんが、陸続きの燈台ではそんなに船も出してもらえないのでしょう。
下に愛媛県佐田岬の燈台職員だった方のお話を引用します。(愛媛県生涯学習センターHPより)
 「仕事の他に大変だったことは、特に、医療と子どもの教育でした。当時は、所長を含めて5人の職員と
 その家族が灯台近くの官舎に 住んでいましたが、病院までが遠くて急病の時には大変困りましたし、
 正野小学校や串中学校まで(約2.5kmから約4kmの距離)を歩いて通っていた子どもたちにとっては、 
 灯台周辺が主な遊び場であり、職員とその家族が遊び友だちでした。
 それでも、夜になると正野や串から村の人がよく訪ねて来てくれ、酒を飲みながら楽しく話をすることも
 ありました。また、観光客 以外にも思いがけない人が訪ねて来ることもあり、
 南極観測船『宗谷(そうや)』の2代目船長をされて当時は海上保安庁第6管区本部長であった明田末一郎さんが
 灯台の視察に来たときは、地元の人たちも同席する中で南極のいろいろな話を聞かせてもらいました。
 他の印象深い来訪者としては、昭和30年(1955年)の夏でしたが、金魚売りの業者が金魚の入った
 桶(おけ)を天秤(てんびん)棒で担(かつ)ぎ一人でやってきたことがありました。
 あそこに灯台が見えるから灯台守とその家族がいると思って長く細い山道を歩いてきたのでしょうか。
 忘れられない思い出です。」

燈台守の方の大変さが感じられますが、さらにその上を行く金魚売りのパワー、すごい

ここから先はドローン映像にお願いしましょう。


動画の出はじめは念仏トンネル出口からです。
トンネル内では「ギャオギャオ・キャーキャー」言いながらでしたが、トンネルを抜けたとたん全員が息を呑みます。
あまりの美しさです、積丹ブルーの海に浮かぶ神威岬と神居岩、右すぐそばには水無しの立岩が聳えます。
絶景ですが・・今は通行禁止です、行ってはいけません。 youtubeを使っていますがこの映像だけで我慢しましょう。
念仏トンネルを抜けて神威岬に向かっても最後の登り道が無くなっています、斜面をずり落ちると上の遊歩道から行動が丸見えです。 良い子は行かないようにしませう。

神威岬から余市までは来た道を戻るのですが、積丹半島東側にピリカ岬があり近くに女郎子岩という高さ50mほどの岩が海面からそそり立っています。
バスからは見えません。 ここにも義経伝説があります(義経を追って、高波にのまれたシララ姫伝説) 
積丹岬の東、入舸は昔アイヌの人たちが住んでいたところです。
【義経一行は、日本海沿岸を北上、 神威岬の沖を船で通過しようとしていました。
ところが、この辺りは、風の強さと潮の流れの早い難所。
荒海に櫂を流され、かろうじて入舸に流れつきました。
首長は娘のシララに義経を介抱させ、義経の傷も順調に回復していきました。
海辺を散歩する義経とシララの姿は、ほほえましい光景でした。
しかし、ここも義経にとって安住の地でなく、 一族の再興をはかる大望を胸に船出をしたのです。
シララは岩伝いに船を追いましたが、 折りから満潮となった大波にのみこまれてしまいました。
波間に沈んだかと思うとシララは浮かびあがり、 そのまま女郎子岩になったということです。】 ・・・だそうです。
シララ姫がいつどこで女郎?になっちゃったのか不明ですが積丹でよく歌われていたのが


私は良くは知りませんが、積丹YHや美国YHで良く歌われていたと聞きます。

灯台守の方々を描いた映画がありました。

積丹神威岬と積丹ブルーの海を満喫したところで今日の宿、ニセコへ向かいます。

今日泊まるニセコの宿はニセコ山群の南端にある「ニセコローヤルロッジ=モイワローヤルロッジ(両者とも同じ)」です。
ここは日本ユースホステル協会からは正式認定されていないユースホステルです。
北海道ユースホステル協会が独自に契約したユースホステルだったのでしょう。 設備と食事は良かったような記憶が・・・
ニセコの山奥で、冬にスキーだけの宿ですから夏季の運用を考えたものと、北海道ユースホステル協会の夏の繁忙期の運用とでマッチングしたのでしょう。
しかし北海道ユースホステル協会の資料にも残っていないとは・・・ 写真を探したのですがありません、インターネットでも発見できませんでした、ごめんね。
一部資料によると昭和41年太平洋クラブ国際モイワスキー場開設とともにモイワロイヤルロッジも完成したという記述があるとともに、昭和47年に太平洋クラブに経営交代したとの記述もあります。
ニセコ地区は国内国外の色々な資本が入り乱れ、毎年のように経営母体が変わっています。
うろ覚えなんですが、スキー場直下(リフト乗り場)に立っていた、大きな施設だったような・・・
当時の航空写真 

ローヤルロッジで配布された歌集 

宿泊スタンプからイメージを取り出してください。
今日の宿泊スタンプ・・ペタ! 

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