南回り14回 第3日目 8月9日(水)


蝦夷富士と呼ばれる羊蹄山を見ながらニセコの町を過ぎます。
 ロプロスさんのブログより

ニセコ地区は今のようにスキーリゾートとして有名ではありませんでした。
私がニセコ地区で泊まった宿としては「山田温泉」や「望洋荘」などの安いスキーヤーズベットでした。
(スキーヤーズベット=今のカプセルホテルのような造り。 通路に対して間口が狭く奥行きが長いハーモニカ形状。
但し通路との仕切りは布カーテンだけで、もちろんテレビなど無い。 男女相部屋でしたし。)
なにせニセコは東京・大阪から遠かったので、行く人も少なかったです。
千歳空港から支笏湖(美笛峠)を経由する直通バスなどは無く、列車で札幌・小樽まわりで半日かけて行かなくてはならなかったんですから。
今は直通バスもありますし、北海道新幹線が開通するときには倶知安に駅が出来ます。 (どれだけの人が利用するかは?)

倶知安にはニセコユースホステルがありました、
倶知安駅裏すぐの旭が丘市民スキー場のすぐ下で、駅からは線路を横切り20分程歩いたところにあったと思います。
スキー場にはジャンプ台(シャンツェ)もありました。
晴れた日にはYHの前庭から羊蹄山がくっきり見え素晴らしかった、と記憶しています。 でもホスバスでは組み込まれませんでした。 残念
ちなみにニセコ地区唯一のYHであった(当時)ニセコYHは「ユースホステル建設について、山田部落連名でひらふ地区に誘致陳情するが旭ヶ丘に決定(昭和39年)」(ニセコひらふ修学旅行協会HPより)となり、翌40年に倶知安駅裏側の「旭ヶ丘スキー場」に北海道立として竣工しています。
山田部落とは温泉が湧出していた場所(今のひらふ地区)であり、代表的な宿として山田温泉旅館(廃業)がありました。
もし山田地区にYHが出来ていれば今とは違った発展があったのかもしれません。
だって旭が丘からニセコスキー場までは定期バスに乗っていかないと行けない距離でしたから。それも倶知安駅経由で小1時間です。
 1965年(昭和40年)1月開所

現在のニセコは海外富裕層ばかりをターゲットにするので、日本人ですら排他される地区になってしまいました。 行きたくない。 行かない方がいい。

ニセコ・倶知安を含め羊蹄山麓地区では「そば」の栽培も盛んです。
私が倶知安で好きだった蕎麦屋は「やぶとみ」と言ったかな? 駅前通りを東へ進んで3,4本目の路地を入ったところにありました。
特段のそば好きではありませんが、美味しかったように思うのですが・・・
お店の中に皇室からの恩賜のタバコとか盃などが飾られていて、それに目がくらんでいたのでしょうか? でも良く行きました。

さてバスは進み羊蹄山麓の真狩村を通過します。
村出身の演歌歌手がいて、銅像を建てたとかで一時話題になりましたね。 (今もか?失礼しました)
山麓にある倶知安町・喜茂別町・京極町・真狩村・ニセコ町など、どの町村もジャガイモ(馬鈴薯)の生産で有名です。

洞爺湖到着前、向洞爺と呼ばれる展望台で小休止。

洞爺湖湖畔で少し休憩した後、洞爺湖を左に見ながら昭和新山YHで昼食をとります。

洞爺湖温泉街については北海道地質研究所報告の「鳥瞰図に見る洞爺湖温泉街の変遷」が面白いです。

昭和新山は有珠山の火山活動を受けて、有珠山の東側に突然もっこり盛り上がった山です。
もともと畑だった場所が突然もっこりなんてびっくりしますよね。 近くにお住まいの方は日に日に盛り上がっていく様を見て、恐怖だったでしょう。
でもこの時、地元の郵便局長「三松正夫」さんがその後数年にわたり詳細な記録を取り続け科学的に非常に貴重な資料となったようです。
国際的にも貴重な資料としてこの記録は「三松ダイアグラム」と呼ばれているそうです。


 ゆっくりでなく結構激しい噴火もあったみたい
私たちが見たころの昭和新山
今の昭和新山、山の高い所まで木が生えてきています。

そして2000年に有珠岳西側でおきた噴火では、現住する人のいる地域で起きただけに噴火や地殻変動で大きな被害を受けたようです。
写真は2000年噴火による地殻変動で被害を受けたわかさいも工場付近。
  
屋根ぼこぼこ、建物崩壊。 インパクト凄し。

ホスバスには全国から来た方々が乗っていました、自然災害の多い近年ですが皆さんの平穏を祈っております。

昭和新山からオロフレ峠を経由し登別温泉へ。 クマ牧場など見てクッタラ湖に寄り今日の宿、白老YHへ。

白老YHと言えば忘れられない逸話があります。
今でこそ全国のユースホステルで歌われる「旅の終り」のことになります。

以下の文は私がノートに書き留めておいた文なので間違いがあるかもしれません、そのときはごめんなさい。
特に歌詞の部分はいわゆるオリジナルに近い形で書き直しました、間違っていたらごめんなさい。 舟橋俊久さん。
引用させていただいた朝日新聞さんありがとうございます。

【2012.11.3(土)の朝日新聞朝刊別刷be「うたの旅人」で紹介されました 「旅の終り」】 

夢のような旅だった   遠い北の国の
僕は旅の喜びと     旅のつらさを知った
北の国の少女たちと   すごした夢のせつな
今日は君も他の街へ   僕も他の街へ
 こんなつらい旅なんか  もういやだ 旅を終わろう  汽車に乗ろう

共に山に登ったね    君と手を取り合って
共に海を見ていたね   水は青く澄んで
 君の心青く澄んで   僕の心が取り戻す      海の青さ

人と人との出会いなんて いつも別れで終わる
僕は君のくれた夢を   明日も持ち続けよう
 こんなつらい旅なんか  もういやだ 旅を終わろう  汽車に乗ろう

 こんなつらい旅なんか  もういやだ 旅を終わろう  汽車に乗ろう

現在は電機メーカーで太陽光発電システムなどを研究する舟橋俊久さんが大学生だった1970年、北海道旅行中に作詞作曲した。
73年には、友人でもあったシンガー・ソングライター山名敏晴さんがレコード化した。
全国のユースホステルで歌われるようになり、77年には日本ユースホステル協会が監修した LP「いっしょに歌って」第3集に収録、複数の歌手がシングルを発売した。
歌手によってテンポや歌詞の一部が異なる。掲載した歌詞は北海道・礼文島の桃岩荘ユースホステルで40年間、唄われている。
北の島から全国へ歌い伝えられた 「旅の終り」

いくつもの旅の連鎖が歌を運んだ。
1970年夏、「旅の終り」を作詞・作曲した舟橋俊久さん(61)は、初めての北海道を旅していた。
当時、名古屋大学工学部の1年生。旧国鉄の周遊券を使い、列車で、函館から札幌、道北へ。そして利尻島に渡った。
利尻富士 そこで道内の女子高生3人組と知り合う。

一緒に利尻富士に登り、帰りのフェリーでは船酔いした一人を介抱した。
結局、名前も聞かなかった。彼女たちは南へ、舟橋さんは道東へ向かった。
周遊券の有効期間は20日間。「旅の終り」は、その期限が迫る道東から札幌への列車の中で生まれた。
北の国の少女たちと 過ごした夢のせつな ― 「旅を終える寂しさと、所持金が少なくなってきた心細い気持ち」から、ふと歌詞とメロディーが浮かんだ。
それを駅弁の包み紙の裏に書き留めた。
舟橋さんがこの曲を人前で披露したのは、名古屋へ帰ってからだ。
当時、アマチュアで音楽活動をしていて、地元ラジオ局の番組やライブで歌った。「レコードにしたら」と薦めてくれる人もいた。
しかし、その機会には恵まれなかった。

71年夏、今度は舟橋さんの音楽仲間だった名古屋在住のシンガー・ソングライター、山名敏晴さん(61)が旅に出る。
一緒に旅するはずの女性は待ち合わせの駅に現れなかった。
独りギターを抱えて列車に揺られ、北海道をめざした。
不運が続く。途中で財布を落とし、函館に着いた時の所持金はポケットの小銭だけに。
連絡先を知っていた苫小牧市のフォークサークルの事務所へ、ヒッチハイクで何とか転がり込んだ。
しかし、金が無く、どこにも行けない。
そればかりか、風邪をひき、寝込んだ。
仕方なく大切なギターを売り、名古屋へ戻った。
つらい旅だった。でも、山名さんは大きなものを北海道に残したかもしれない。
苫小牧市で知り合った男性に、舟橋さんの「旅の終り」を教えたという。

72年春、礼文島・桃岩荘ユースホステル(YH)のペアレント、柳谷秀一さん(63)の妹、留美子さん(58)が旅に出る。
当時まだ高校生。
苫小牧市から南西へ25キロほどにある白老YHに宿泊した。
そこで同室になった女性から、歌を教えてもらった。
タイトルは「旅の終り」。
誰の曲かは分からない。しかし、旅から戻った妹が歌うこの曲が、柳谷さんの心に染みた。
この年の桃岩荘の「今年の歌」となり、ミーティングで毎晩歌われるようになった。

翌73年、山名さんがデビューアルバムに「旅の終り」を収録し、74年にシングル盤を出した。
その歌詞とメロディーは、桃岩荘で歌われているものとは少し違っている。
経路は分からないが、楽譜やレコードを通じてではなく、人から人へと歌い継がれた曲が、遠く礼文島までもたらされたことは間違いない。

ねぇ、いい話でしょ。 ねぇ、いい歌でしょ。
北回り7日目 1972年7月27日に紹介した「赤い花・白い花」と同じで、当時のYHとホステラーたちの持つ発信力ってすごいですね。

私たちも白老YHでこの歌を聞きました。 白老YHではYHのサブペアレントさんがミーティングしてくれましたから。
でも私が皆さんに歌唱指導できるほど聞き込んでいませんでしたから、教えることはできませんでした、ごめんなさい。
それと、この歌が広く知られ全国のYHで歌われ始めたのはバスが終わった後でした。
プロの方の手が入って洗練され歌いやすくなっています。

上の文章にも出てきた「山名敏晴」さんバージョンで・・・ オリジナルとして。


それとユースホステルのアルバム【いっしょに歌って】でも歌っている「青木清」さんバージョンで・・・ 歌いやすいです

この歌、ホスバスの最後の日にでも歌ったら涙・涙だね。 シャロームでもそうなんだから・・・ね、ね

 1968年(昭和43年)2月開所
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